3歳の孫から「じいじい、しつっこ、しつっこ」とよく言われる。「しつっこ(しつこい)」と、嫌われてしまったようだ。しかし、信仰者が「しつこい」のは、神に好かれるのである。その代表が、族長ヤコブである。ヤコブは「祝福して下さるまでは離しません」と言って、神と格闘する記事が創世記32章に記されている。そのヤコブのしつこさに、遂に神は負けてヤコブを祝福するのである。そして「イスラエル」という名を彼に与えた。
神を信じる者は、自動的に祝福に与るのではない。「果報は寝て待て」と言うことではない。もしそうであるならば、私達は御国を求めることも、御心が天になるごとく地にもなるようにと祈る必要もない。祈らずとも、「そうなることになっている」ということで済むからである。しかし、そういうことにならないから、祈るのである。
ヤコブの「祝福して下さるまでは離しません」という姿勢は、食いさがる、執拗な祈りの大切さを教える。ヤコブは神との夜通しの格闘の末、神から祝福を受けるが、その結果、腿を痛めて足を引きずるほどの代価を払うこととなった。それは又、主イエスの祈りの姿勢でもあった。主イエスは、ゲツセマネの園において、十字架上において、神と格闘されたのである。全ての人の罪を赦すために、命がけで神と格闘された結果、神は主イエスの祈りを聞き入れて下さった。この神との激しい交わりの中に共に生きるようにと招かれたのが、新しいイスラエルとしての私達である。
「主よ、祝福を与えて下さい。私の人生に、家族に、教会に、世界に」と私達は祈るのではないか。しかし、その祈りは余りにも淡白ではないか。家族の救いを本気で願うなら、祈祷会に馳せ参じて祈りを合わせる、平和な世界が実現することを本気で願うなら、夜通しとは言わずとも朝晩祈る、神と四つに組んで格闘することが求められている。「人のふんどしでは相撲は取れない」ように、神の約束の言葉を信じて、「祝福して下さるまで、あなたを離しません」と、神と格闘する者にこそ、必ず希望の朝が来る。
フォーサイスは、『祈りの精神』の中で、「祈らないことは罪である」と語る。神は私達を祈る人間として、神に向き合う人間として造られたからである。又、祈りが失敗する理由について、「祈りを中断するからである」と語る。私達はどんな時でも神の前に立ち続けることを止めてはならない。神は苦しみや悩みを通して、祈る者として私達を導いて下さる。それを知らずに失望し、祈りを止めてしまう時、私達の信仰は崩れ壊れていく。どんな時にも、祈る人と共に神はおられ、御心を実現して下さる。