「コロナ」という言葉は、ラテン語で「王冠」を意味する。コロナウイルスには、王冠のような球状の表面突起があるので、そう付けられた。聖書の中には、たくさんの王冠が記される。その中で、イエス・キリストは黄金の冠を戴いた王ではなく、茨の冠を戴いた王として登場する。十字架につけられた主の頭には、輝かしい栄光に満ちた王冠ではなく、血まみれになった茨の冠がかぶせられた。そして、主の遺体は直ちに墓に運ばれた。これで万事休すと思えたが、三日後には、主が墓の扉を一気に開かれたのである。誰もが想像することができない死を克服する出来事を、主は三日目の復活によって成し遂げられた。それによって、死に完全に勝利されたのである。
その勝利について、パウロは、「だれが、キリストの愛からわたしたちを引き離すことができましょう。艱難か。苦しみか。迫害か。飢えか。裸か。危険か。剣か。『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』と書いてあるとおりです。しかし、これらすべてのことにおいて、わたしたちは、わたしたちを愛してくださる方によって輝かしい勝利を収めています。」ローマ8:35-37と語る。復活の信仰に生きるということは、ただ単に将来の死後の事柄ではない。それは他ならぬ、「今、この状況の中で、いかに生きるか」という事柄である。たとえ『わたしたちは、あなたのために一日中死にさらされ、屠られる羊のように見られている』という不安と恐怖心にさらされていても、その状況の中で耐えることができるのは、復活の力によって、死に打ち勝って勝利を収められた主が、今も私たちと共にいてくださるという確信があるからである。
イタリアの医師ジュリアン・アーバンさんはその確信を得た一人である。「私は2週間前まで無神論でした。しかし、自分たちにできることはもはやなく、人々は次々に死んでいき、同僚2人も亡くなりました。ようやく、神に助けを求めなければいけないということに気づき、今は、日々主の平安を求め、病気の人を助けることが出来るように医療行為を続ける力を与えてくださいと、主に祈っているのです。昨日召された75歳の牧師は、自分が大変な状態にも関わらず、希望を失っていた私たち医師に平安をもたらしてくれました。」この証を読んだ医療従事者からのお便りに、「イタリア人医師の手記は、非常に心に迫るものでした。このような惨状にならないようにと考えていましたが、そこに医師としておかれたことを考えると、どれだけ辛い状況か、その中にあって信仰の力を知ることができました。」とあった。真の平安は、今も主が共にいてくださると信じるところから生まれる。