真のプレゼント交換

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かつてクリスマスになると、教会でプレゼント交換をした。輪になって賛美を歌いながら、隣の人にプレゼントを渡していく。賛美が終わったところで、自分が手にしたプレゼントを頂く。何が入っているのか、包みを開ける一瞬が楽しみであり、そのプレゼントに込められた相手の気持ちに感謝したものである。

聖書に記されている世界で初めのクリスマスも、プレゼント交換がなされていたことに気付く。神の側からは、その独り子のイエスを救い主として私たちに与えることによって、罪の赦しと共に永遠の命を与えて下さった。そして、人間の側からは、その神の恵みに対して、神から与えられた最高のものを神にプレゼントするのである。

占星術の学者たちは、「ひれ伏して幼子を拝み、宝の箱を開けて、黄金、乳香、没薬を贈り物として献げた」マタイ2:11。当時「占星術の学者」と言えば、「天文学者」であり「占い師」であり「魔術師」でもあった。つまり、科学者と宗教者と医者の全ての働きを兼ね備えた存在であった。「黄金、乳香、没薬」は、全て高価なもので、彼らの仕事を支えるに必要な商売道具、つまり、この道具によって彼らの人生が支えられ、地位と名声と冨を得ることができた。しかし、それを惜しげもなく全て主イエスに献げた。

この献げ物を単なる幼子イエスの誕生祝いとして献げたのではない。彼らの献げたものは、ただ高価な品物というだけではなく、「彼らのそれまでの人生を象徴するもの」すなわち「それまでの生き方そのもの」を、主イエスに献げたのである。つまり最も高価な献げ物を献げるとは、彼らの献身の決意が示されている。そして、クリスマスを祝う私たちにも、神は彼らと同じような決断を迫っているのではないか。

私の大好きな俳句に、玉木愛子さんが謳った「目をささげ、手足をささげ、降誕祭」がある。玉木さんは、小学校入学の頃にハンセン病に罹り、日本最初のハンセン病院である熊本の回春病院に入所、そこで、熱き祈りの人である三宅俊輔院長と出会い、34歳の時に洗礼を受けてキリスト者になった。やがて玉木さんは病気のため失明し、手も足も失う。そうした中で作ったのが、この俳句であった。視力も手足も何もかも失い、食べるのも、飲むのも、読むのも、移動するのも、何もかも人手を借りなければならなかった。そんな中で、降誕祭を心から喜び、与えられた命の光を力いっぱい周りに輝かせて生きたのである。それは、見事なプレゼント交換となった。

「主はわがために、血を流し、今も恵みを与えたもう、我何をもちて、これに応えん」新生300