本日は上尾シティーマラソンの日である。教会の前の道路が封鎖され、目の前まで来ているのに、なかなか横断歩道を渡れないという方もいて毎年大変である。しかし、このマラソンに参加した方がここに教会があると気づいて、信仰に導かれたこともあるので、クリスマスの案内も多くの人の目に留まることを期待したい。
マラソンランナーは、上尾運動公園というゴールを目指してひたすら走り続けるが、信仰者も同じである。パウロは、「なすべきことはただ一つ、後ろのものを忘れ、前のものに全身を向けつつ、神がキリスト・イエスによって上へ召して、お与えになる賞を得るために、目標を目指してひたすら走ることです」フィリピ3:13-14と述べている。
バプテスマを受けてクリスチャンになるとは、競技場のスタートラインに立つこと。又、クリスチャンであるとは、コースの途中にあること。何らかの悟りを開いた人でも、目標に達した人でもない。むしろ、自分の弱さや貧しさ、不完全さを知らされて、途中にあることを自覚しつつ、信仰の馳せ場を走り続ける人のことである。
そのためには、「後ろのものを忘れ」ることが大事である。それはクリスチャンになる前の知識や特権、地位や誇りなどを指す。或いは、クリスチャンになってからの数々の業績や実績、困難を乗り切ってきた経験、人々の賞賛などを指す。それらを一切忘れることである。そして、「前のものに前進を向ける」ことが大事である。即ち、ゴールだけを見てひたすら走ることである。信仰生活には、全身を向けるべきゴール(目標)がある。そのゴールとは、神の国、栄光に輝く復活がゴールである。
それがはっきりと分かることによって、私達の生き方は決まってくる。ゴールを目指すために、賞を得ることを目標とする。この賞とは、「今や、義の栄冠を受けるばかりです」Ⅱテモテ4:8とあるように、「わたしたちの卑しい体を、ご自身の栄光ある体と同じ体に変えてくださる」フィリピ3:21ことである。キリストの似姿を目指して走るのである。
「キリストの体」である教会もゴールを目指して走る。では、上尾教会のゴールはどこにあるのか?100名礼拝か?開拓伝道か?確かなことは、全ての人が主を信じて救われることを、主は願っておられる。即ち、この礼拝堂が一杯になることが目標なのではなく、それは結果であって、全ての人々が主のもとに導かれ、共に主を礼拝するようになることが目標なのである。その目標を目指して、ひたすら走りたい。
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