ネットを見ると、「寿命診断アプリ」なるものがあった。健康状態や食生活などから余命を診断し、余命年数が表示される。とは言っても、平均値から算出したもので、正確なものではない。しかし、聖書の中に記されている「寿命診断アプリ」は正確なものである。「生涯の日を正しく数えるように教えてください。知恵ある心を得ることができますように。」詩編90:12。「生涯の日を正しく数える」とは、「自分が死ななければならない存在であることを私に示してください。」と求めることである。「メメント・モリ」(汝、死すべきことを覚えよ)という言葉をよく聞くが、私たちは、自分が死ぬべき存在であるという現実から目を背けがちである。しかし、死について考えない生き方は、今のこの生、生きることについても考えない生き方となってしまうのである。
私たちの地上の生涯の行き着く先は死である。誰も死を避けて通ることはできない。死を前にした時、それこそ空しさを覚えたり、様々な恐怖に捕われることがあるだろう。この詩人は、自分の罪に苦しみ続けた。どれだけ忘れようとしても、神はその隠れている罪に光を照らし、その罪を暴き、裁かれる。神の怒りを前にした時、私の存在は消え去ってしまうということに恐れを覚えた。死という絶対的な力を前にして、もはや一歩も前に進むことはできない。どれだけ自分の知恵を振り絞っても、生涯の日を正しく数えることなど到底できない。ただ嘆くしかないのである。
しかし、神はその嘆きに応えくださった。罪から解き放たれ、死を乗り越えて行くことのできる確かな命に生きる知恵を、神は私たちに授けてくださった。その知恵を、主イエスの姿に見ることができる。主の十字架を通して、神は「あなたの罪は赦されている」と告げてくださった。そして、死に打ち勝つことのできる復活の命の中を、神と共に進んで行くことができると、復活の主は、私たちに語りかけてくださった。
ルターは、中世の時代から教会で歌われた、「生の最中にあって、われわれは死の中にある。」という賛美歌を、「死の最中にあって、われわれは生の中にある。」という歌詞に変えて歌った。どんな祝福に満ちた人生を送っても、死の壁が私たちを四方から取り囲んでいるが、私たちは主の復活の命に確固として囲まれて生きている。私たちが神によって生かされているということは、まさにこのように歌いつつ歩むことではないか。神は、生涯の日を正しく数える生き方へと、今日も私たちを招いてくださっている。主の命が、私たちの日々の歩みを確かなものとしてくださるのである。