献金とは、信仰の共同体における祈り

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献金のスチュワードシップを見事に表しているのが、毎週、週報の裏面に記されている「先週のスチュワードシップ」である。ここには、先週捧げられた献金と献金者名が記されている。先週、この献金の記載について執事会で話し合った。献金額だけで、献金者名はいらないのではないか、という問い合わせがあったからである。その事に対して、一つ一つの献金項目に献金者名が載せられていることは、教会を建て上げるために、多くの祈りが合わされていることがわかり、大変勇気づけられる、もし、献金額だけならば、一部の人だけが捧げているのか、そうでないのかわからず、自分の事として真剣に受け止めなかっただろうという声も聞かれた。又、様々な感謝献金が捧げられていることを知って、神の恵みの豊かさに気づかされ、子供たちも他者のために感謝を表している姿に、深い感動を覚えたとの声も聞かれた。

丁度、祈祷会で「やもめの献金」を学んだ。主は「この貧しいやもめは、だれよりもたくさん入れた。・・・この人は、乏しい中から持っている生活費を全部入れたからである。」ルカ21:3-4と言われた。金額的には、やもめの献金は「レプトン銅貨2枚」とわずかであったが、それは「生活費の全部」であったので、「だれよりもたくさん入れた」と、主に賞賛されたのである。主は、その献金がやもめの生活において持つ意味の大きさに目を留められた。私たちは、「生活費の全部」と聞くと、そんな事をしたら一体どうやって生活していけるのかと、不安になるのではないか。否、「十一献金」でもそう思うかもしれない。しかし、「生活費の全部」を捧げたということは、自分の生活は主が養ってくださるという信仰があったので、全てを主に委ね、精一杯捧げたのである。

献金とは、「信仰の共同体における祈り」である。そこには、一人一人が主の体なる教会の肢体として、「われ何をなして、主にむくいし」との熱き祈りをもって捧げているので、会計報告を見る時、数字と共に、一人一人の祈りを見ることが大切である。すると、共に祈り合うことへと導かれる。長い間臥しておられる松木恂子姉が、毎月「守られて」という感謝献金を捧げているのを見る度に、松木姉が日々主に守られていることに感謝の祈りを共に捧げ、又、「友愛チームに感謝」という献金が捧げられているのを見る度に、送迎などのサービスが信仰生活に大いに役立っていることに、感謝の祈りを共に捧げている。主が御覧になったように、献金が、一人一人の信仰生活において持つ意味の大きさに目を留めて、共に祈り合っていきたいものである。