沈黙の中で神の声を聴き続けていきたい

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青年時代に遠藤周作の「沈黙」を読んだ時、福音を伝えた司祭が「踏み絵」を踏む(転ぶ)なんて、何と弱い信仰なのか、自分なら踏まないと息巻いていたが、歳を老い、人生に様々なことを経験していくと、なぜ、神は苦しむ者の叫びに答えてくださらないのか、神の沈黙の意味を深く考えるようになり、「転ぶ」ことも神の恵みであることを悟った。それを再確認させられたのが、年末に試写会で観た「沈黙」であり、先週BSで観た「巨匠スコセッシ“沈黙”に挑む~よみがえる遠藤周作の世界」であった。

「転ぶ」ことは「棄(き)教(きょう)とは違う。番組の中で、アメリカの学生が「転べばまた起きあげればいいんだ」と言っていたが、それを見事に表したのが「キチジロー」であった。彼は家族が踏み絵を踏まず、火あぶりにされていく中で、自分だけは踏み絵を踏んで転ぶ。マカオからポルトガルの司祭を先導して長崎に連れてきて、その司祭に主の赦しを乞うが、役人に「お前もキリシタンか」と詰め寄られると、踏み絵を踏んで転ぶ。そして司祭を役人に売って、捕えられた司祭に赦しを乞うが、また自分に迫害の手が伸びると、踏み絵を踏んで転ぶ。転んでも転んでも、また主に赦しを求めて、主にすがっていく。まさに、「神に従う人は七度倒れても起き上がる。神に逆らう者は災難に遭えばつまづく。」箴言24:16。実はキチジローが、司祭の教師であったのである。

アカデミー賞監督のマーティン・スコセッシが28年の歳月をかけて、なぜ「沈黙」の映画化に挑んだのか?その理由を、「沈黙のストーリーが私の心をつかんでやまないのは、異文化の衝突(信仰と暴力)を描いているからです。信ずるという信仰を心底分かるためにはありとあらゆる衝撃を通過しなければならないのです。」と語り、また「監督とって沈黙の意味とは何か」という問いに、「沈黙は、この時代の狂気から解放して、魂を真の求道へと導く」と答えていた。現代の世界は、まさに「異文化の衝突」が起き、自らの信仰(主義主張)を正当化し、意に沿わない者を力で排除し、命や生活まで奪う。

踏み絵は、キリシタン禁令の時代だけでなく、現在も至る所にみられる。「君が代・日の丸」「国歌・国旗」法案として国会で審議された時、政府は教員の内心の自由は認めると言っていた。しかし、成立した途端、「君が代・日の丸」を拒む教員を次々と処分している。今、沖縄の高江でも「ヘリパッド」建設に反対する沖縄平和運動センターの山城博治議長を不当に逮捕して、反対運動をつぶしにかかる。私たちは、「信教の自由」が空洞化しないように祈り、沈黙の中で神の声を聴き続けていきたい。