死は勝利にのみ込まれた

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私たちは必ず死を迎えなければならない。だから、中世の修道院では「メメント・モリ(汝、死すべきことを覚えよ)」と門に記した。又、作家の三浦綾子さんも「私にはまだ死ぬという仕事がある。」との言葉を残した。私たちは自分の死を真剣に考えるべきであるが、死を恐れるあまり、死から目をそらしてはいないだろうか。「死んだら万事休す」と思えるほど、死が勝利し、私たちをのみ込んでしまう現実を恐れるのである。

しかしパウロは、「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。死よ、お前のとげはどこにあるのか。」1コリント15:54-55と、高らかに勝利宣言した。これは何と力強い、喜びに満ちた宣言であろうか。死の威力はまるで嘘のように消え失せてしまった。一体このような死に対する勝利はどこから来るのか。それは神ご自身が「死」という人類最大の敵を、勝利のうちにのみ込み、その力を打ち砕いて亡きものにしてしまったのである。それによって私たちを支配していた死に、私たちは逆転勝ちして勝利をつかむことができたのである。

私たちが死に敗北するのは何故か。それは死のとげである「罪」があるからである。そして律法はその罪を増大させ、律法を守らなければ、神の罰が与えられることを絶えず人に知らせ、絶望に導くのである。しかし主が十字架で死んでくださり、復活してくださることによって、この死のとげを抜き取ってくださった。私たちは主を信じて主に結ばれる時、死のとげが抜き取られ、主の復活の命に与る者とされる。

死はあっけなく、主の勝利のうちにのみ込まれた。復活の主という勝利者にのみ込まれて、滅ぼされたのである。主はいったん生き返ってまた死んだのではなく、3日目に復活された主は、今も生きておられる。単なる蘇生ではない。主は、死とは無関係の罪なきお方であり、死に対して、究極的な勝利を果たされたのである。

「わたしが生きているので、あなたがたも生きることになる。」ヨハネ14:19と、主は死を克服し、主を信じる者に、復活の命を約束してくださった。私たちは死に対して、真正面から向き合うべきではないか。それは、最期の時をどう迎えるか、「終活」することよりも、死後はどうなるのか、ということを問うことである。何の答えも見いださないままに死んでいくのか、それとも主にその復活の命を見いだし、真の平安に与るのか、そのどちらを願うのか。今日のイースターの良き日に、主を信じて、主の復活の命に与り、「死は勝利にのみ込まれた。」と勝利宣言する者でありたい。