今年のイースターは、イエス・キリストの復活の喜びを祝うムードはどこにも見られない。むしろ、新型コロナウイルスの感染の脅威に世界中が死の恐怖と戦っているのが現実である。しかし、そのような暗い現実があるにも関わらず、いや、それを乗り越える事実がキリストの復活にはある。パウロは、それを、「死は勝利にのみ込まれた」と表現している。何と素晴らしい言葉、何と励ましに満ちた言葉であろうか。
死の力の前に、私たち人間は絶望し、敗北し続けてきた。愛する人を亡くした悲しみの涙を見る度に、どんな人間も死には無力であると痛感する。しかし、パウロはこの死に対する勝利を確信した。それは、キリストが復活することによって、死に打ち勝ったからである。そして、私たちも死に対する勝利を得られるとパウロは喜びをもって語る。キリストを復活させてくださった神は、将来、私たちをも必ず復活させてくださる。この約束を確信する時、私たちも「死は勝利にのみ込まれた。死よ、お前の勝利はどこにあるのか。」Ⅰコリント15:54-55と、高らかに勝利宣言をすることができる。
キリストの十字架と復活の出来事を見る時、打ち負かされたのは、キリストではなく、死であることがわかる。なぜなら、キリストは3日目に死から復活されたからである。私たちが将来与えられる復活の命を望み見る時、私たちは、自分がこれまで積み重ねてきたものは、決して無駄にならないことを知る。死の先には、復活がある。又、死によって絶たれた関係は、復活を通して回復する。キリストが再び来られる日、復活した私たちは、愛する人々と再び出会い、死によって絶たれた関係を回復する。
「復活信仰」というのは、死なない信仰ではない。死んでも神が復活させてくださるという信仰である。死んでも大丈夫だという信仰である。聖書は、死は終わりではなく、新しい命の始まりであると説く。復活されたキリストと結ばれた私たちは、「朽ちるべきもの」肉の体から、「朽ちないもの」霊の体に変えられる。クリスチャンになった椎名麟三という作家は、自分は復活を信じられるようになって、「これで安心して“じたばたして”死ねる」といったそうである。死は勝利にのみ込まれてしまったということは、こういう死に方ができるということではないか。復活の主を信じる者は、「恐れと不安の中で、“じたばたして”死ぬ」のではない。「安心して“じたばたして”死ねる」のである。やがて私たちにも死は訪れる。その時、「死は勝利にのみ込まれた」という信仰に生きるなら、死は絶望ではなく、復活の希望をもたらしてくれると確信できる。