「教会でもクリスマスをお祝するんだ」と言った子供がいたが、今日、クリスマスはどこでもお祝される国民的行事となった。それをよく表れているのが商売の世界である。どのお店のチラシにも「クリスマスセール」と記されている。しかし、今年、アメリカのスターバックスでは、昨年までトナカイやクリスマスの装飾をあしらっていたカップを止めて、無地の赤いカップにした。同社は「全てのストーリーを受け入れる純粋なデザインでホリデーを迎えたい。このカップには、包容と多様性の文化の創出を目指す狙いがある」と説明した。既にスタバーだけではなく、他のお店でも「クリスマス」でなく「ホリデーシーズン」と宣伝し、多様性の文化を尊重しだしている。その点、日本では、相変わらず、もうかれば「多様性の文化」などどうでもよいと考えてはいないか。
私たちは「メリークリスマス」とお祝するが、では誰とお祝いしようとしているのか。クリスマスは、悲しみや孤独、不安や貧しさを抱える人々のただ中で起こった出来事である。権力者の横暴によって辛い旅を強いられ、又、宿屋も断られ、馬小屋に泊まらざるを得なかったマリアとヨセフ。暖かい産湯もなく、飼い葉桶の中に産み落とされた幼子イエス。そしてそこに集ったのは、差別され、虐げられ、町から追い出されて野宿する羊飼いたちであった。又、差別された異邦人の占い師たちであった。悲しみに暮れる者たちが、この世から見れば、不幸せな者たちが集められた。そのような場所にクリスマスの星は止まり、救い主の誕生が告げられたのである。
星野富弘さんの詩に、「喜びが集まったよりも悲しみが集まった方が幸せに近いような気がする。強いものが集まったよりも弱いものが集まった方が真実に近いような気がする。幸せが集まったよりも不幸せが集まった方が愛に近いような気がする」とあった。まさに、悲しみが集まった馬小屋に、救い主は生まれて下さった。そして今日も、「幸せに近い、真実に近い、愛に近い」クリスマスが求められているのでないか。そのようなクリスマスを迎えるためには、自分たちだけで祝うのではなく、悲しみや苦しみの中にいる人々に思いを馳せ、この暗闇に救いの光が灯されることを信じて、祈りを捧げることである。今日の世界を見る時、内戦や家庭内暴力のために温かい家に住むことができない人々、又、飢餓や貧困のために生活が困窮している人々、原発事故や基地のために苦しんでいる人々、様々な差別やハラスメントのために人権が脅かされている人々…の叫びが聞こえてくる。その人々の所に、救い主が真っ先に生まれて下さった。救い主の誕生を告げることこそ、最高のクリスマスプレゼントである。