「わたしは裸で母の胎を出た。裸でそこに帰ろう。主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」ヨブ記1:21。ヨブは、財産を失い、子どもを失い、健康を失う中で、「主よ、なぜこんな苦しみを私に与えるのか」と主を呪ったのではなかった。「主は与え、主は奪う。主の御名はほめたたえられよ。」と主に感謝した。これぞ、私たちが目指す信仰者の姿勢ではないだろうか。そのために、本人の姿勢だけではなく、教会の姿勢も大切である。主に健康や地上の命が奪われても、教会は寄り添っていくのである。
牧師会の帰りに茂原教会をお訪ねした時、塩山先生から、「施設に入っていた教会員を訪ねたところ、入院されたと伺ったので、施設の方にどこの病院かを尋ねても、家族以外の方には伝えることはできません、と言われて困っています。」というお話を伺った。今は、個人情報の漏洩を防ぐために、どの施設でも、そのような対応がとられている。そこで、教会として事前にできることは、家族と連絡をとる手段を講じておくことである。何かあった時には、家族の誰に連絡をとったらよいのか、ご家族の同意も得て、続柄、住所、電話、携帯番号などを保存しておく必要があるので、教会の皆さんには、特に、一人暮らしの方には、提出して頂きたいと願っている。
以前、上尾教会でも教会員が亡くなった時、家族の意向で、教会には何の連絡もなく、仏式で葬儀が行われたことを後で知って、大変ショックを受けたことがあった。葬儀は、最高の信仰の証しの機会になり、自分が主催する伝道集会であるとよく言われるが、そのためには、生きている時に家族と教会に、「葬儀に関する希望」をしっかりと伝えておくことが何よりも大切である。上尾教会では、「葬儀に関する希望」用紙があるので、それを家族と教会に提出して頂きたいと願っている。
かつては、自分の死を語るだけで、「縁起でもないことを言うな!」と戒められたが、今は、自分の死に関する希望を出す「終活」が、一般の社会においても盛んである。自分がどのような葬儀を迎えたいのか、どこに埋葬されたいのか、家族や牧師や葬儀委員と話し合っておくことは、よりよい死を迎えるためにも必要なことである。私たちは例外なしに死を迎えなければならない。他人事のように構え、死を避けていてはならない。「わたしたちは、このような宝を土の器に納めています。」Ⅱコリント4:7。朽ち果てていく「土の器」の中に、主の復活の命という「宝」が納められていることを証しできる機会が葬儀である。「ハレルヤコーラス」に包まれて、天国に凱旋したい。