教会学校の目的は何か

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2016年度を迎え、新しいクラスがスタートした。新しいメンバーとこの一年、御言葉を分かち合うことによって、豊かな学びと交わり、主を証する伝道の機会を得て頂きたいと願っている。教会学校の目的は何か?それは、教会学校の目的は、その活動を通して、全ての人々が、イエス・キリストを信じる信仰告白に導かれ、教会を形づくり、生の全領域において主に聞き、主を証しする生活を確立していくことにある。」

パウロも「皆が共に学び、皆が共に励まされるように、一人一人が皆、預言できるようにしなさい。」Ⅰコリント14:31と勧める。ただ御言葉を学ぶだけではなく、共に励まし合うために、一人一人に預言(主を証し)することが求められている。その預言は、「空しい望みを抱かせ、自分の心の幻を語る」エレミヤ23:16ことではない。「主の口の言葉」を語ることである。「預言する者は、人に向かって語っているので、人を造り上げ、励まし、慰めます。・・預言する者は教会を造り上げるのです。」Ⅰコリント14:3-4と、御言葉によって励まし合い、慰め合い、時には戒め合うことによって、健全な主の教会を造り上げていくのである。自分を主張したり誇ったりするではなく、相手を建て上げることである。そのためには、悪口や非難やそしる言葉ではなく、愛を持って、相手を励まし、慰め、相手の霊的向上を図っていく言葉を語ることに心がけたい。

「預言の働きは、牧師や分級リーダーのすることであって、私のすることではない。」そう考えている方はいないか。しかし、そうではない。全員が預言することができる。主の言葉を語ることを託された若きエレミヤは、もう主の名を口にすることも、語ることもやめようと思った時、「主の言葉は、私の心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、私は疲れ果てました。」20:9と告白した。主の言葉(主の救い)は、燃え上がる炎のようにエレミヤの心を熱くし、黙していることに疲れ果ててしまった、たとえどんな非難や迫害を受けても語らずにいられない、と示されたのである。私達にとって主の言葉はどのようなものか。主の言葉に心が燃やされて、熱い思いを吐き出すように、主を証ししたいものである。

「一人一人が皆、預言できるように」なるということは、皆が共に学んでいく中で起きてくる。自分一人では気づかないことも、クラスの皆で御言葉を分かち合うことによって、励ましや慰めだけではなく、主を証しする勇気も与えられる。友達や家族をクラスにお誘いし、その中から受浸者が与えられたら、何と素晴らしいことか。