救いの喜びを伝えよう!

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主の弟子たちが聖霊の力を頂いて、主を大胆に証ししたように、私たちも証しすることが求められている。しかし、証しを頼まれた時、自分はクリスチャンとして立派な生き方をしていないから、とても証しなどできないと敬遠することはないか。しかし証しは、自分の立派な生き方を語ることではない。自分の内に、主がどんなことをしてくださったか、その救いの喜びを伝えることである。悪霊に取りつかれたゲラサ人が主に癒された時、主は「自分の家に帰りなさい。そして身内の人に、主があなたを憐れみ、あなたにしてくださったことをことごとく知らせない。」マルコ5:19と言われた。

大宮溥牧師も『教会生活の手引き 伝道』の中で次のように語る。「証しというと、何か劇的な回心の経験や、生きるか死ぬかという危機的な状況を信仰によって乗り切ったというような、特別な話のように考える人がありますが、それは間違いです。もちろん、そのような劇的な経験も、神の大きな恵みの証しになります。しかし証しをそれだけに限定してしまうと、大多数のクリスチャンは証しができなくなってしまいますし、その上、証しを聞く方でも、なるほど立派なことだけれども、自分たち凡人にはとても及ばないことだという印象をもつのではないでしょうか。証しは自分の宗教経験を発表することに目的があるのではなく、自分に与えられた神の導きと恵みを語ることです。ですから、人間としては隣人と変わらない、弱さや破れのある普通の人間であることをいつも自覚していなければなりません。そのような人間としての共感、あるいは人より劣り、欠けの多い自分であることを率直に認める態度を持つ時、隣人は親近感と共感を持つのです。そのように人間的には特に優れているわけではない我々に、慰めとなり励ましとなり、あるいは叱責として、神の働きかけが与えられます。」

なぜ、『アメージング・グレース』という賛美歌が世界中の人々に親しまれているのだろうか。それは、作詞者のジョン・ニュートンの飾らない信仰告白が記されているからである。彼は奴隷船の船長として、アフリカから奴隷をヨーロッパに輸送して莫大な富を得ていた。しかし、嵐に遭遇して生死の境をさ迷った時に、主に助けられる経験をした。その時、自分の犯してきた罪に気づき、悔い改めて主を信じるのである。そして、牧師となり、主の深い愛を人々に伝える生涯を送るのである。

『アメージング・グレース』の一節は、次のような内容である。「何と美しい響きであろうか。私のような者までも救ってくださる。道を踏み外しさまよっていた私を、神は救い上げてくださり、今まで見えなかった神の恵みを、今は見出すことができる。」