私は、2018年度もいくつかの奉仕が与えられた。力不足の自分ではあるが、どれもなくてはならない奉仕ばかりである。私に与えられた奉仕の中のひとつに、「礼拝委員会」というものがある。牧師と奏楽者のお二人と共に、約3ヶ月先までの賛美や礼拝スケジュールを立てるというものだ。恥ずかしながら「礼拝」の意味も知らずに委員になった私は、これを機に秋山牧師にお借りした書物から学ばざるを得ない。
まず、神の愛が私たちを礼拝に招き、神様が「礼拝」を備えてくださる。そして、私たちはこの「礼拝」で神の愛の招きに応答していく。これを基本として「礼拝」を捉えると、主日の礼拝のすべてのプログラムの意味を理解することができる。
上尾教会では、秋山牧師から愛のこもった「宣教」を聴くことができる。秋山先生独自のわかりやすい言葉で、私たちの心に神の言葉が届けられる。秋山先生は、礼拝堂におられる一人ひとりに向かって神の言葉を語られ、慰めや希望を私たちに与えてくださる。「実に、信仰は聞くことにより、しかも、キリストの言葉を聞くことによって始まるのです。」ローマ信徒への手紙10:17。パウロがイスラエル人に神の言葉を聴く重要性を説いたこの箇所は、今も私たちの原点ではないだろうかと思う。
そして礼拝では、その時々に必要な賛美が捧げられ、奏楽者は演奏することよりも、会衆が賛美を捧げることに心を注ぐ。賛美は礼拝にとって、はかりがたいほどに大きな力を持つ要素である。祈りにも、司式者、説教者、献金、祝祷とそれぞれの目的がある。また、神の恵みへの感謝と献身のしるしとして献金をささげる。月に一度執り行われる「主の晩餐式」にも、イエス・キリストの十字架の贖いを思い起こすという意味がある。前奏より心を静めて神様にお会いする準備をし、その時を待ち、拝する。こうして礼拝によって神の愛に応答していく。
皆さんにおいては、当たり前のことであるかも知れないが、私は数年間、大事なことに気づかず、礼拝に出席し、讃美歌を歌い、主の晩餐式では、パンとぶどう酒(ぶどうジュース)を口にしていた。神様から礼拝に招かれたとしても、私の礼拝に対する姿勢は、はたして神様からいただいた恵みへの応答になっていただろうか。
まさにスチュワードシップの原動力となる「礼拝」を大切にし、主の愛の恵みへの応答を積極的にしていきたいと思う。
「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩篇133:1