主イエスは、「自分の命のことで何を食べようか何を飲もうかと、また自分の体のことで何を着ようかと思い悩むな」マタイ6:25と言われたが、私達の現実は思い煩いで一杯ではないか。生活上の様々な事…健康、家族、仕事、人間関係、子育、老後、又、災害や事故に遭う事、平和憲法や社会保障が危うい日本の将来の事…悩みは尽きない。
そんな思い煩いに満ちた時代に生きる私達に、「思い煩いは、何もかも神にお任せしなさい。神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです」Ⅰペトロ5:7と勧める。この「思い煩い」とは、「心」という語と「分割する」という語が組み合わさってできている。ある一つの事柄を巡って、どうすればよいか心が分かれ、解決の糸口を見出せない状況に陥ること。多くの人は、このような心の分裂状態を抱えている。その結果、自分で全てを担うか、それとも神に一切を任せるか、二者択一を迫まられる。
「何もかも神にお任せしなさい」とは、どの分野のものであろうが、いかなる領域のものであろうが、神に任せられないものはないということである。でも、何でもかんでも神に任かせていいのか、神に丸投げで自分は何もしなくてもいいのか、それはこの世を管理させるために神に造られた人間の責任放棄ではないか、と思う人もいるだろう。もちろん、神に任せた上で、自分のすべきことをすることは大切である。
「お任せしなさい」とは、本来、あるものを自分の手中から手放して、他のものの中に置く、という意味である。自分の心の中にある思い煩いを、そこから取り出して、神の手の中に投げ入れる。これは、消極的な生き方ではない。これは神を信じる勇気、神に任せる信仰の大胆さがなければ生まれてこない。思い煩いを神に任せられないのは、まだ自分の力で何とかなる、と自分の力に固執する生き方である。
神に思い煩いを任せることのできる根拠は、「神が、あなた方のことを心にかけていて下さるからです」神は私達以上に私達のことを全てご存じで、顧みて下さる。神は、ご自分に従う一人ひとりに心を配り、必要な助けを与えて下さる。それは、神が私達に代わって思い煩って下さることでもある。だから私達は、思い煩う必要はない。私達は、むしろ全ての事に感謝すればよい。「どんなことでも、思い煩うのはやめなさい。何事につけ、感謝を込めて祈りと願いを捧げ、求めているものを神に打ち明けなさい」フィリピ4:6。神は私達のことを心にかけて、万事を益として下さるのであるから、思い煩いは何もかも神にお任せして、感謝を込めて祈りと願いを捧げていきたい。