祈祷会に出席された方から、「上尾教会は、初代教会のようですね」と言われたので、「どうしてそう思われますか」と尋ねたところ、「彼らは、使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」使徒言行録2:42の御言葉が、上尾教会に当てはまると言われた。その指摘はあながち間違ってはいないと思った。コロナ下でも、祈祷会出席者は20名を超え、ズームでの出席者も加わって心を一つにして祈りが捧げられている。嬉しいことに、子どもたちも祈祷会に出席している。
祈祷会では、賛美を捧げた後、「静聴の時」をその日の「聖書日課」の箇所から持っている。そして、御言葉から示されたことを分かち合うが、自分では気づかないことも沢山示され、御言葉が味わい深い霊の糧となっている。私はその後に奨励をするが、むしろ、各自が分ち合ってくださった内容で十分だと思うこともある。
その後、祈りの課題を出し合う。「家族が救われるように」「求道中の方が救われるように」「子どもたちの信仰が育つように」「駐車場が与えられるように」「施設にいる方や入院中の方の健康が支えられるように」「牧師の働きが支えられるように」「神のみ心に適った政治が行われるように」「平和憲法が守られるように」「世界に主の平和がもたらされるように」・・多岐にわたって祈りの課題を祈り合う。
新生讃美歌430番に『静けき祈りの時はいと楽し』とあるが、祈祷会はそのことを体験できる時である。一人ではなかなか祈れなくても、皆の祈りに励まされて、祈る力が与えられる。また、祈り合ったことが聴かれた喜びを分かち合うことができる。「また、はっきり言っておくが、どんな願い事であれ、あなたがたのうち二人が地上で心を一つにして求めるなら、わたしの天の父はそれをかなえてくださる。」マタイ18:19。
大切なことは「心を一つにして祈る」ということである。これは「シンフォニー(交響曲)」の語源になった言葉で、「一緒に音楽を奏でる」という意味である。一人一人がばらばらに音を出していては、それは音楽にはならない。互いの音を聞きながら、指揮者に従って、初めて音楽は生まれてくる。私たちにとって指揮者とは、イエス・キリストである。御言葉によって主の御心を知り、その御言葉に基づいて、心を合わせて祈り合っていく時、その祈りは必ずかなえられるだろう。祈ることは 沢山ある。祈祷会に積極的に出席して、「心を一つにして祈り合おう」ではないか。