御言葉を行う人になりたい

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先週の「第27回埼玉一日アシュラム」において、御言葉から新たな恵みを頂くことができた。その時、御言葉の「静聴の時」を一時間ほど持った。わたしにとって、生きるとはキリストであり、死ぬことは利益なのです。」フィリピ1:21との主題聖句に心を傾けながら、フィリピ書全体を黙想していく内に、自分の日々の生活がいかに主の御心に適ったものでないか、自らの不信仰が示されたと共に、「いついかなる場合も対処する秘訣」を主から授かっていることを知り、御言葉に聴従することの大切さを再確認した。

「御言葉を行う人になりなさい。自分を欺いて、聞くだけで終わる者になってはいけません。」ヤコブ1:22。御言葉を聞いて、その真理を理解しただけでは不十分である。むしろ、聞いたことを、実行に移すか否かに一切がかかっている。例えば、「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22:39という戒めを、日々の生活で実行することである。「行いが伴わないなら、信仰はそれだけでは死んだものです。」ヤコブ2:17と指摘する。

東京の妙円寺というお寺の掲示板にこんな言葉があった。「言っていることではなく、やっていることが、その人の正体」。確かにそうだと思わせられる言葉である。その人が言っていることではなく、その人がやっていることにこそ、その人の内実が現れるというのは、もっともなことである。言葉だけになって、実際の行動が伴っていないことは、私たちにもよくあることではないか。どれだけ立派で正しいことを言ったとしても、どれだけ道徳的なことを言ったとしても、その人が身近な所で誰かを軽んじたり、誰かの尊厳を傷つけたとしたら、それらの言葉は虚しく響くだけのものになってしまう。そして、「言っている」ことと「やっている」ことが違うと信頼を失い、「あの人のようにはなりたくない」という反面教師のレッテルを張られるだろう。

「すべて良い木は良い実を結び、悪い木は悪い実を結ぶ。良い木が悪い実を結ぶことはなく、また、悪い木が良い実を結ぶこともできない。良い実を結ばない木はみな、切り倒されて火に投げ込まれる。このように、あなたがたはその実で彼らを見分ける。」マタイ7:17-20。「実」とは、その人の実際の振る舞いや生き方を指している。「言っていることではなく、やっていること」である。行動の果実にこそ、その人の内実がはっきりと現れる。果実を見ればその木が何の木か分かるように、その人の「やっていること」を見れば、その人の本性が分かる。「生きるとはキリスト」私たちは御言葉を聞くだけで終わるのではなく、行う人へと変えられたい。「行いの伴う信仰」に生きたいものである。