御救いの良い知らせを告げよ

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来週、金丸真先生を仙台からお迎えして、春の特別伝道集会(以下「特伝」)を行う。かつて特伝といえば、金曜・土曜の夜と主日礼拝の3回行うのが、当たり前であった。講師も3回あると、人間の罪、十字架の救い、新生の喜び、と十分に語ることができた。又、来会者も3日間続けてくる方も多く、特伝で救いの確信に至り、バプテスマの決心に導かれた方も多かった。それが社会の変化によって、3日間集う方が少なくなり、特伝が2日になり、遂に主日礼拝の1回になった。十分に福音を聞く機会が少なくなった分、特伝で救いの確信に至る人が少なくなったことは、残念である。

しかし、特伝が一回になったとしても、新たな人が招かれ、主の救いを求めるきっかけになれば幸いである。私たちは特伝を迎えるにあたって、「あなたの人生にも役立つ良いお話だから、是非この集会に来てください。」とお誘いしたい。先週の祈祷会の箇所に、「この日は良い知らせの日だ。わたしたちが黙って朝日が昇るまで待っているなら、罰を受けるだろう。さあ行って、王家の人々に知らせよう。」列王記下7:9とあった。私たちは誰かから福音を伝えられて、主の救いに与ることができた。だから、自分が救われたことに満足し、黙っていてはならない。主の救いという良い知らせを伝える責任が私たちにもある。私たちが伝えなければ、誰も特伝に招かれることも、主の救いに与ることもできないだろう。実は、特伝の主役は、講師ではなく、私たちである。

私たちには、特伝の時だけ声を上げて伝えることが求められているのではない。むしろ、日々の生活の中で、主の救いを伝えることが求められている。「日から日へ、御救いの良い知らせを告げよ。」歴代誌上16:23「日から日へ」とは、主日礼拝の時だけではなく、毎日、主の救いを伝えることである。毎日が特伝である。私たちは毎日、何を語っているだろうか。主の救いを語るよりも、不平不満を語っていることが多いのではないか。私たちが「告げる」べきことはなにか。不平不満ではない。それは、「御救いの良い知らせ」「主の栄光」「その驚くべき御業」である。主なる神がイスラエルの民をエジプトの支配から解放して、自由に身にしてくださったように、御子イエス・キリストを遣わして、十字架の死と復活の御業によって、私たちを罪と死の支配から解放して、救い出してくださった喜びの出来事こそ、告げるべきことである。

「良い知らせを伝える者の足は、なんと美しいことか」とパウロは語ったが、美しいのは、足だけではない、その人の人生も生き方も美しい。そんな美しい人になりたい。