ペンテコステは、主の復活から50日目に、主の弟子たちに聖霊が降り、聖霊の力を受けた彼らは大胆に福音を宣べ伝え、各地に教会が誕生した日である。その日、ペトロは集まってきた人々に対して、旧約聖書の預言者ヨエルの言葉を引用して、『神は言われる。終わりの時に、わたしの霊をすべての人に注ぐ。すると、あなたたちの息子と娘は預言し、若者は幻を見、老人は夢を見る。』使徒言行録2:17と語った。聖霊が注がれると、幻や夢を与えられ、教会が誕生していった。まさに幻(ビジョン)がなければ、教会は誕生しなかったとも言える。上尾教会も48年前、上尾開拓の幻が与えられた一握りの人(西川口教会の井置利男牧師と大原つゆ子さん)によって始められた。
ペンテコステの日に、誕生した教会の大きなしるしの一つは「祈り」であった。主の約束を信じ、待ち望んで祈っていた人たちの上に聖霊は注がれたのである。幻を見る者とは、祈る者である。祈りのあるところに、幻がある。幻は、人間的な目標とか期待とかというようなものではない。今日、少子高齢化の中で、教勢が振るわず、人間的には夢や希望を持ちづらい現実がある。「開拓伝道」という言葉は死語になり、教会の「合併」「閉鎖」という言葉を耳にする。財政面から牧師を招けない教会もある。しかし、そのような中で、神は私たちに幻を与え、夢を与えてくださる。私たちは、大いなる御業を成してくださる神を信じて、絶えず祈る者でありたい。
幻を見ることは、決して楽なことではない。そこには犠牲が伴うからである。幻を見たペトロは、カイサリヤにいた百人隊長コルネリウスの家を訪ねるが、そのことを知ったユダヤ人たちから大きな非難を浴びることになった。幻を見たパウロは、彼に約束されていた地位や輝かしい将来などすべてを捨てて、命がけで福音を語る者となった。パウロはトロアスで「マケドニヤ州に渡って来て、わたしたちを助けてください」と叫ぶマケドニヤ人の幻を見た時、まだ行ったことのない地に足を踏み入れていく。幻を見るということは、犠牲を払って、一歩を踏み出していくことである。
幻を見ることに、年齢は関係ない。自分が生きている間にその幻が実現することを願うが、実現しなかったとしても、聖霊によって見せられた幻は生き続け、受け継がれていく。初めは一人の幻かもしれない。しかし、それはやがて教会の幻となっていく。聖霊がすべての人に注がれ、すべての者が幻を見る者へと変えられていく。ペンテコステの日に注がれた聖霊は、今も私たちに、大いなる幻を見せてくださる。