コロナ感染は増えたのだろうか?と不安を感じながらスマホやネットで確認するのが日課になった。オンライン授業をしている大学等を除いた小・中・高校とも再開されている最近では、各自が意識しながら感染を防衛している。
戦後75年過ぎて、世界は平和を願いつつ歩んでは来たものの、経済中心の競争社会が頂点に達して混沌とした有様でもがき行き先を見失っている気がする。結果、自然破壊も頂点に達し人間性喪失に支配され誰もが孤独に過ごし、『戦争』と名付けられなくても内実的に冷え切った世界を生きているのかも知れない。はからずも新型コロナ感染症で世界中が試練の中に置かれ始めたが、そんな中、教会では平和月間が設けられて、今を見つめなおす時が与えられて感謝である。
世界中の感染状況に胸ふさぎながらも身近なところでは、感染を経験しなかった近所や教会に繫がる家族などでも、自粛生活や様々な不安感からくるストレスから逃れるのは困難を極めた試練だと思う。しかし薄々ではあるが、多くの人は身近な人々との共存を願い、物に支配されない人間性の回復を模索し始めていると思う。すっかり孤独になって寂しい社会から、生身の体・心・魂をさらけ出していいのだと気づき始めてはいないだろうか。孤独をスマホやネットで埋めるのではなく、しばらくは「三密」を避けるスタイルでも生身の体・声・言葉を交わし始めることが必要である。それは共存とか、助け合い、隣人愛ともいえる。ぶつかり合いもあってもいい。
ただし、最も見失っていけないのは「自分」である。一人一人が神様に創られた人格である。特質も弱さもある素晴らしさは、一緒に・共に生きれば活かされると思う。一人一人が「自分」を持ち、各々心に「自分の領域」を与えられている。「自分の領域」は「自分」しか分からない。話す相手やコミュニケーションをとる相手にお互い誤解を感じたら(「自分」の領域を踏みにじられたと感じたら)きっぱりと違うと伝える。伝えないと、例えば足を踏んづけている相手に痛いですよと言わないのと同じで伝わらないし、「自分を曲げる」結果になり、痛みから解放されることはない。一人でできなければ大声出して他に助けてもらってもいい。話し合いなど繰り返し助け合う時、平和の主が助けて解決してくださる。
「戒めを守る人は魂を守る。自分の道を侮る者は死ぬ。」箴言19章16節