私は8月6日を迎える度に、思い出す詩がある。それは原爆詩人であった峠三吉の詩である。「ちちをかえせ ははをかえせ としよりをかえせ こどもをかえせ わたしをかえせ わたしにつながるにんげんをかえせ にんげんの にんげんのよのあるかぎり くずれぬへいわを へいわをかえせ」。この叫びには、平和への熱い願いが込められている。
今年、敗戦後72年目を迎えるが、戦争の傷跡は消えるどころか、被爆者はじめ遺族の方々に鮮明に残っている。又、日本の侵略戦争によって、命も家族も故郷も奪われたアジア諸国の方々も、戦争の傷跡は癒えることはない。長崎で被爆された永井隆博士は、「戦争に勝ちも負けもない。あるのは滅びだけだ」と戦争の愚かさを指摘した。
しかし、今日も戦争が絶えず、世界のどこかで戦争の惨禍が起こっている。悲しいことに、被爆の苦しみを一番知りうるはずの日本政府が、核兵器禁止条約に賛同せず、米国の核により頼もうとする。核の抑止力が必要だ、そのためには、被曝者の叫び声を聞かず、核兵器の悲惨さに目をつぶり、原発も安全保障の面から、将来の核兵器に転用できるように再稼働を進める。本当に愚かとしか言いようがない。
なぜ、戦争は起こるのか。ユネスコ憲章では、「戦争は人の心の中で生まれるものであるから、人の心の中で平和のとりでを築かなければならない。」と語っている。戦争とはほかでもない、まず心の中に生じるという。そして、この「人の心の中で生まれるもの」こそ、「欲望」であると聖書は指摘する。「何が原因で、あなたがたの間に戦いや争いが起こるのですか。あなたがた自身の内部で争い合う欲望が、その原因ではありませんか。あなたがたは、欲しても得られず、人を殺します。また、熱望しても手に入れることができず、争ったり戦ったりします。」ヤコブ4:1-2
もっとよい暮らしをしたい、そのためにはもっと富も資源も蓄えたいという欲望に支配されて、人のものを、他の国のものを、暴力的手段によって奪うのである。インドネシアに宣教師として派遣された浅見先生から、「“搾取”という日本語を現地の人から聞いて驚いた、それほど日本軍は、ありとあらゆるものを搾取したのです」と言われた言葉を思い出す。「心の中で平和のとりでを築く」ためには、この欲望に打ち勝たないかぎり、平和は来ない。この欲望は、自分の力では取り除くことはできない。荒野でサタンの誘惑に打ち勝ち、十字架で罪に完全に勝利してくださった主イエスを信じ、主と共に生きる時、誘惑に打ち勝ち、平和の道を歩むことができるのである。