平和のためにしてきたことは人生の道だった    教会員

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1945年終戦翌年生まれの私が、いくらか戦争に繋がる感覚として覚えているのは 8歳頃の事です。戦後落ち着きを戻した日常もあり、宮城県古川市の七夕祭りも行なわれ町まで見物に行くと、傷痍軍人の奏でるアコーディオンやハーモニカの響きに胸がふさぎました。生活のためだと聞かされた。他方、難病の兄しか口にできない高価なバナナ売りの声も混じっていた。輸入ができるようになったのかも知れない。七夕飾りは美しく揺れていた。また、母は時々、父が戦地から(と言っても、外地に行く直前に終戦)持ち帰ったカーキ色一色のゲートルや外套を見せてくれて、安堵のような気持ちが母から伝わったことなど、覚えている。

中学、高校ではあまり戦争や平和について論じ合う仲間はいなかった。むしろ人生の虚無を個々に漂わす空気は流れ始めていた。高卒後神学校に入ったが、社会人からの学生もいて、折りしも靖国法案が叫ばれ、クラスメイトと一緒に法案反対のために、国立駅前で法案反対の署名活動を始めた。又、特にキリスト教史の得意な親友がいて(後に日本改革派の牧師と結婚)、卒業後も 度々、意気投合し反対運動に参加した。

やがて結婚して子どもも生まれ家族で法案 反対デモに参加した。おんぶしたり、ベビーカーを押したりしながら浦和から東京へ。しかし、子どもが6人与えられ育児で忙しく東京への参加は無理になり、気持ちだけが膨らんだ。子ども達を靖国の英霊にするわけにいかないと焦るばかり。南浦和在住の神学校の恩師に相談すると、自分の近くで始めるよう助言されたがそのままに終わった。やがて靖国法案は廃案になったが、日の丸・君が代、国旗・国歌法案が提出され、再び、親友と連れ立って反対デモで、国会前で雨の中でも座り込みながらチターをならし賛美歌を歌った。信仰の自由、平和、子どもを戦争に送らないと祈りつつ賛美した。国会内の傍聴席にいたが、法案が成立した瞬間、「はんたーい!」と叫んだ女性は即座にだ捕された。高崎から80過ぎた母親と、産婦人科医の仕事を休んで参加していて、いつも一緒に座り込みに参加していたので心配したが数時間後開放された。

平和のためにしてきたことは、私の人生だったなと思える。人々との出会いが与えられ 叫び、祈った人生に神は応えて下さった。そして今、最も身近な上尾教会の多くの方々と平和のために出かけたり、辺野古カレーを食べたり、祈祷会で心一つにしてお祈りできる。御言葉を信じて祈り、平和を先取りしたい。子や孫達のために。

 「平和を実現する人々は、幸いである、その人たちは神の子と呼ばれる。」マタイ5:9