毎年8月を上尾教会は「平和月間」として取り組み、今年も貴重なお話を伺うことが出来た。この国では原子爆弾、敗戦の日を含む8月に歴史を振り返る報道が多くなるが、この国に起因し他の国の人々が傷ついた歴史に関しては年々報道すら無くなっている気がする。そして先の大戦から80年近く経過し、語り継ぐ声が小さくなる一方で、地球上にでは理不尽な争いが絶えず繰り返され、失われるいのちが数えきれない。
そんな8月に、文字通り「天寿を全う」と言ってよいであろう状況で母を天に送った。3ヶ月前から危ないと言われ、土浦の老人ホームまで何度か足を運んだが、時には衰えたり時には少し回復したり…そのうち「お寺さんの石を○○万円で買った…昔でなく最近のこと。」など、夢をみているのか?理解出来ない体験談を聞かされ、人間が衰えてゆくとき脳はどう変化するのか?興味深かった。召される10日前は「水が飲みたい」など会話が成立したが、同じく3日前の最後の面会では会話はできず、眼を閉じて足先は既に冷たくなりかけ、その時を予感させる状態だった。夏の終わり、私の畑のきゅうりもトマトも自然に枯れ行く時期だが、母の場合は、痛みを口に出すことも少なく、自然のままに、草木が枯れゆくように肉体が衰えて、肉体の機能が停止した後には、何故かと思うほど穏やかな表情が残った。決して立派な信仰者では無かったかもしれないが、その表情からは「帰り着くべき場所に帰りついた。」といったような安堵感を見て取れた。
この世の歩みは、時として平穏ではなく、悲嘆の連続であるかもしれない。しかし「信じて神に依り頼む」とき、最後には御手の中で全てが美しいものとなる。母は1928年(昭和3年)、戦前に生まれ、若い時期を戦火の下で過ごし祖母を終戦前夜の空襲で失った。しかし戦後キリストに出会い、その生涯を自然のうちに、主にある平和のうちに閉じることができたことは何より幸せだと思う。
自分にもいつか身体が自由でなくなり、何も出来なくなる日も来るであろう。その時まで主の愛に感謝し、賛美の心を持ちつづけることができればと願う。
「もはや死もなく、もはや悲しみも嘆きも労苦もない。最初のものは過ぎ去ったからである。」 黙示録21:4