対話こそ、平和を生み出す

Home / 週報巻頭言 / 対話こそ、平和を生み出す

人は誰でも「平和」を求めている。平和な人生を、平和な家庭を、平和な社会を、平和な世界を、平和な未来を求めている。今、「平和の祭典」と言われるオリンピックがリオで開かれているが、平和でなければ、スポーツを楽しむことも、音楽を楽しむことも、旅行することもできない。平和の反対は、「戦争」ではない。戦争のない状態が必ずしも平和とは限らないからだ。戦争がなくても、人として持つべき最低の権利がなければ、公平さがなければ、自由がなければ、平和な状態とは言えない。

先週『標的の村』(YouTubeで観られる)を上映したが、沖縄の高江の住民は、国家権力によって生活も健康も奪われている。これは暴力であり、差別であり、分断である。連盟理事会は、『私たちは高江ヘリパッド工事強行に抗議する』という声明文の中で、下記のように記した。「人口160名にも満たない小さな集落・高江の住民たちの生活の上に、国家権力の違法な暴力が集中している。これは他人事でも、高江だけの問題でもない。ここに姿を現しているのは、この国全体で進む国家の暴力支配そのものだからだ。」

それは福島の原発事故に遭った住民についても言えるし、障がい者や在日朝鮮人、被差別部落出身者やハンセン病者にも言える。「平和学の父」ヨハン・ガルトゥング氏は、「例え戦争がなくても、貧困や差別、人権侵害がはびこる社会は平和とは言えません。そこで、私は平和を『暴力の不在』と定義し、戦争や紛争を『直接的暴力』、貧困や差別などを生み出す社会構造を『構造的暴力』と捉えました。そして、直接的暴力のない状態を『消極的平和』、構造的暴力のない状態を『積極的平和』と定義しました。」と唱えた。

では、どうしたら構造的暴力のない、『積極的平和』を生み出すことができるのか。ガルトゥング氏によると、「一人一人が相手に共感する力を持ち、お互いを尊重し、対話によって身近な問題を解決する経験を積んでいけば、地球規模の問題も解決できるようになります。どんな問題であれ、解決のために最も大事なことは対話することです」と説く。

アッシジのフランチェスコは、キリスト教徒とイスラーム教徒が対立して争った十字軍の時代に、自らの命を顧みず、イスラーム教徒の所に出向き、「対話」を行った。その対話を試みた思いが、有名な『聖フランチェスコの平和の祈り』に表されている。

「主よ、私を平和の道具とならせてください。憎しみに愛を、戦いに和解を、分裂に一致を、疑いに信仰を、誤りに真理を、絶望に希望を、暗闇に光を、涙に喜びを、もたらす器とならせてください。アーメン」。私たちもこの祈りに心を合わせ、対話をしていきたい。