家庭で賛美を捧げる者になりたい

Home / 週報巻頭言 / 家庭で賛美を捧げる者になりたい

「主よ、あなたは私を救ってくださった。私たちは命のある限り主の神殿で、私の音楽を共に奏でるでしょう」イザヤ38:20。この御言葉は先週の祈祷会で分かち合った、死の病が癒されたヒゼキヤ王の告白である。私たちも毎週礼拝で賛美を捧げるのは、主に罪を贖われ、永遠の命が与えられたことに感謝して賛美するのである。しかし、主の神殿とは、必ずしも「礼拝堂」とは限らない。「家庭」も主の神殿である。我が家の子供たちが「お父さんは、一階と二階では正反対」と話しているのを聞いて、ショックを受けたことがあった。一階、教会では「いつも喜んでいなさい」と説教しているのに、二階、牧師館では「いつも怒っていた」からである。これでは証にならない。家庭にいる時こそ、本性が顕れるもので、言っていることよりも、やっていることを家族はよく見ている。「それでもクリスチャンなの」と言われるのではなく、「私もあなたのようなクリスチャンになりたい」と言われるような信仰の歩みを心がけたいものである。

来週から「スチュワードシップ」月間に入るが、一人一人が忠実な主の僕としての生き方を身につける時である。自分に与えられた賜物は何かを発見し、その賜物を最大限生かして互いに仕え合うことが求められている。賜物は用いれば用いるほど豊かに与えられ、自分も他者もその賜物によって生かされる。しかし、注意しないと、1タラントンが与えられた僕のように、その賜物を土の中に隠して、結局取り上げられてしまう愚かな生き方をしてしまうことも起きる。『信徒の神学』著者H・クレーマーは、「信徒は教会の凍結資産である」と表現した。信徒がお客様になっていると。しかし、信徒こそキリストの体である教会の中心でなくてはならない。特に、バプテストは教職制度を否定し、牧師も一信徒であり、「信徒による教会形成」を重んじてきた。ですから、本日のように信徒説教者が立てられることを喜ぶのである。

私たちは、神に呼び集められた者であると同時に、家庭に、地域に派遣される者である。そして遣わされた場所で、「主がどんなに大きな救いの御業を成し遂げて下さったか」を証するのである。「私たちは、隣り人を救い主に導くため、遣わされた場所で主を証します」(上尾教会ミッションステートメント)。そのためには、毎週、神に呼び集められる礼拝で新たな力を頂くことが大切である。教会生活とこの世の生活が分離したなら、経済学者隅谷三喜男先生が言う「二階建ての家に住む日曜日のみのクリスチャンになってしまう」。礼拝で賛美を捧げると共に、家庭で賛美を捧げる者になりたい。