子どもと一緒に礼拝を献げる恵み

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今年は、子どもたちの成長を見ることができた。「子どもの日の礼拝」では、宣教以外はすべて子どもたちが奉仕し、それも一部と二部の二回も立派に成し遂げた。また「キャンドルサービス」では、トーンチャイムで賛美し、降誕劇を演じる姿を見て、これぞ神の大いなる御業であり、「成長させてくださるのは神」であると、深い感動を覚えた。そして上尾教会が取り組んできたことが実を結んでいると確信した。

日本の教会は残念なことに、子どもには説教は難しい、礼拝に出ても騒ぐだけだと勝手に決めつけて、子どもを礼拝から締め出してきたのではないか。その結果、子どもは礼拝の恵みに与る機会を失い、信仰の決心や奉仕する機会も失ってきた。しかし、上尾教会はミッションステートメントで唱えるように、「私たちは、神の栄光をたたえ、こどももおとなも一緒に礼拝を献げます」ということに取り組んできた。その結果、子どもたちは自分の賜物を活かして、神に仕える喜びを見出している。

野村克也・元プロ野球監督が政治家・後藤新平の言葉、「金を残す人生は下、事業を残す人生は中、人を残す人生こそが上なり」を引用して、強いチームを作ったように、まさに教会の働きも「人を残す」人づくりこそ神に求められている。人づくりは、一日一夜にしては成し遂げられない。長い年月、忍耐強く祈り、教え諭していくことが必要である。テモテも「幼い日から聖書に親しんできた」からこそ「純真な信仰」が育まれ、神に大きく用いられたのである。そのために、大人は伴走者として歩むことが何より大切である。「親子聖書日課」を用いて、一緒に信仰を育むことが求められている。

「見よ、兄弟が共に座っている。なんという恵み、なんという喜び。」詩編133:1。この「兄弟」を、「子ども」に置き換えるとよい。礼拝に子どもが一緒に出席し、賛美し、祈り、証しする、これほどの恵み、喜びはあるだろうか。幾つになっても、一緒に主を喜び、信仰について語り合える。そこには親子の断絶はない。親子という関係を超えて、主にある兄弟姉妹として、「神のために力を合わせて働く」ことができるからである。そのような麗しい関係を築くためには、もう、遅すぎると諦めてはならない。子どもと一緒に礼拝を献げることは神の御心であるから、「神にはできないことは何一つない」と、天使の言葉を聞いたマリアのように、「お言葉ですから、この身になりますように」と、必死に子どもの救いのために祈ることである教父アウグスティヌスは、母モニカの涙の祈りによって、信仰に立ち返ることができた。涙の祈りを共に捧げよう。