自分が経営していた学習教室に、7名のスタッフが与えられた。其々のスタッフが各パートを補ってくれて、様々なところで助けてもらった。仕事場では、絶えず条件が変わり、それに応じて自分たちも動きを変えざるを得ない。私は、「個別で子どもの能力を引き上げる」ことを第一の目標にし、また、念頭には大きな理念を持っていた。スタッフとは、「何を目標に業務を行うか」を常に共有していたつもりである。それにより、自ずからするべき事が決定する。絶えず「言葉」が大切だ。子どもたちにも、保護者にも絶えず学習の意味と目標を「言葉」にすることで一つに繋いだ。
教会では、まさに皆が神様と繋がる。教会員は、教会組織の一部になって、適したパートを担う。また、その土台になっているのが、神のみ言葉「聖書」である。このコロナ禍、総務としては、特に念入りに掃除を行うことを奉仕者にお願いした。今まで当番制にしていたが、密を防ぐため、礼拝を二部に分けたこともあり、奉仕者が限られたが、動ける有志が自然と備えられた。負担はあったが、限られた時間を工夫し、自主的に進んで掃除をしてくださる。
奉仕者は、「礼拝と祈祷会は、コロナ禍だからこそ必要である」という想いを一つにして心から献身する。そのために、奏楽、送迎、教育の奉仕や各会等いくつかを兼任しながら皆が動いている。子どもたちのOHPのご奉仕は、日に日に成長をしていく。礼拝をライブで届けたり、Zoomで会議をしたり、ITの知識も必要である。先生は、道行く人の心を少しでも和ませるために、教会の花壇の手入れをされている。絶えず草を引いてくださる兄弟は、暑い時も寒い時も欠かさず教会に足を運んでくださる。窓に貼られたみ言葉にも、姉妹の込められた想いがある。そして、教会員は、他者のため、全世界のために祈る。礼拝では、会衆も応答することで、教会は一つになる。
今、コロナという試練を与えられ、多くのことに気づく。秋山牧師のメッセージや、讃美歌に込められた意味の深さをしみじみと味わい、聖書のみ言葉が乾いた心を潤してくれる。このみ言葉を一人でも多くの人に届けるために、奉仕を通して生かされることの意味を想う。
『わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。』ヨハネによる福音書15:5