大切にすべき教会の姿

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礼拝に集えなかった自粛期間、自分にとって教会とは何かを改めて問い直すことができたのではないか。教会は自分の心を支えるために「不要」ではない、「必要」不可欠な所だと感じたのではないか。ペンテコステの日に誕生した教会の中に、私たちが「必要」不可欠な所だと感じる、大切にすべき教会の姿が示されている。「彼らは使徒の教え、相互の交わり、パンを裂くこと、祈ることに熱心であった。」使徒言行録2:42

何を大切にすべきか、まず第一に、「使徒の教え」に熱心であった。使徒の教えとは、使徒たちを通して伝えられた主の教えのことで、やがてこれが新約聖書として記される。どんなことがあっても主の教えを熱心に守ろうとした。私たちも人々が何と言っているか、この世の常識がどうかではなく、神の言葉は何と言っているか、イエス様ならどう生きられるか、その聖書の言葉に堅く立つことが求められている。

第二に、「相互の交わり」に熱心であった。信仰生活においては交わりが大切である。この交わりとは、親睦会といったものとは違う。この交わりとは「コイノニア」という言葉で、「共有」という意味がある。「信者たちは皆一つになって、すべての物を共有にし」同2:44とあるが、彼らは、お互いに与えられたものを共有した。それは、「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ローマ12:15とあるように、喜びも悲しみも共有することである。失望する時、自分のことを支えてくれる人がいたら、どれほど勇気づけられることか。私たちは一人ぼっちではない、共に分かち合って生きる。

第三に、「パンを裂くこと」に熱心であった。これは「主の晩餐式」のことである。主の晩餐は、主が十字架で私たちの身代わりとなって死んでくださったことを覚えるために、いつの時代も教会は礼拝と共に大切に守ってきた。私はこんなにも主から愛されているという確信が与えられる時である。それが私たちの信仰の力となる。今日から「エアーコミュニオン」という形で行うが、私たちは十字架の贖いに感謝したい。

第四に、「祈ること」に熱心であった。信者たちは集まって何をしていたのかというと、いつも祈りを捧げていた。コロナウイルスの感染で困難な時代、私たちの教会に求められていることは、世界中の人々の命と生活が守られ、主の救いが与えられるように祈ることである。「二人または三人がわたしの名によって集まるところには、わたしもその中にいるのである。」マタイ18:20。二人三人と集まって祈る時、主が共にいて、その祈りを叶えてくださる。一人で悩まないで、共に祈り合おうではないか。