多様性の中の一致

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「私たちの教会は、福音によって多様性を喜ぶ教会でありたいと願っています。子どもたちからご高齢の方々まで一緒に夢を語り、地域の皆様と共に歩みます。イエス・キリストの光に照らされて、自由に解放された生き方を選びます。」福井教会の教会案内に掲げられていた言葉であるが、私たちの教会も「福音によって多様性を喜ぶ教会」でありたい。

教会の中には、多様な人々がいる。子ども、高齢者、病気の人、介護を必要とする人、色々な悩みや困難を抱えている人…・そうした人々が孤立することなく、互いに祈り合い、励まし合いながら、教会を建て上げていければと願う。まさに「一つの部分が苦しめば、すべての部分が共に苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」Ⅰコリント12:26。それがキリストの体としての教会である。

私たちの体には多くの部分があり、しかもどれ一つ同じ働きをしてはいないように、キリストの体としての教会も、そこに連なる一人ひとりもまた固有の存在として、独自の働きをしながら全体に連なっている。その多様性はバラバラになる多様性ではなく、キリストの体という一体性につながる多様性である。人間の体がそうであるように、各部分は互いに関係し、しかも弱い所、苦しんでいる部分があるならば、全体で支え合うように、教会に連なる一人ひとりも同じように互いに配慮し、いたわり合おうとする。キリストの体という教会には分裂ではなく一致があり、しかもその一致は、特に困難の中にある人々が大切にされて一致へと成長していく。

その「一致」とは、決して「同一」ではない。「同じになる」のであれば、一人ひとりの個性や独自性はどうでもいいものになり、「同じでないもの」は「間違ったもの」ということになる。この「同じになる」あるいは「皆が同じになるべきだ」「皆が皆、同じように考えるべきだ」との主張が、「全体主義的」で、本当の意味での「一致を目指す」ことには、かえって支障をきたすものとなっていく。

「多様性の中の一致」に思いを深くする時、それぞれ「違ったもの」であっても、「一つになる」ことが出来るということをしっかりと心に留めたい。自分自身の考えに固執し、他の人たちよりも自分たちの方が正しい、と考える時、「一致のない多様性」が生まれる。これとは対照的に、誰もがいつも同じように「画一的」に考え、同じように行動する時、「多様性のない一致」が生まれる。そこには、もはや自由は存在しなくなる。「主の霊のおられるところに自由があります。」Ⅱコリント3:17