本日「敬老祝福式」を迎えた。人生80年、90年が当たり前になった日本では、70歳は高齢者とは言えないかもしれないが、上尾教会では70歳以上を対象にお祝いする。歳を重ねることは、神の恵みと祝福の証しである。しかし、歳は取りたくない、と誰もが思っているのではないか。教会でも、年を取ったからあれが出来なくなった、これも出来なくなった、あそこもここも悪くなった、という嘆きを聞くことが多い。健康を守られて感謝します、とも言えなくなる。年を取るということは、やっかいなことが増えていく。歳を重ねることは、決して容易いことではない。
老人ホームの園長のお話を伺ったことがある。その園長は、色々な所で講演をされるが、講演後の質疑応答で、必ずと言って良いほど出るのが、「ボケない方法を教えて下さい」。その質問に対して、園長はこう答えるそうだ。「ご安心下さい。必ずボケます。ですから、ボケない方法を、考えて悩むよりも、物忘れが上手になる、と思っていた方がよろしいでしょう。『最近、物忘れが上手になっちゃってね』とご挨拶するようにして下さい」。これは歳を取ることを、前向きに捉えていこうとする、心の持ち方を示す。
「夕べになっても光がある」ゼカリヤ書14: 7という御言葉がある。一生を一日に譬えれば、歳を取った今は、夕方かも知れない。しかし預言者は、夕方には夕方ならではの優しい光がある、という。真昼の照りつけるような、ギラギラした光ではなく、昼間の業で疲れた体をいたわり、覆い包むような優しい光がある、という。その光に照らされて、今のありのままの自分を、感謝し、前を向いて、尚も希望に生きる生き方を目指していきたい、と願わされる。では、その生き方は、どこにあるのか。
それは、歳を取っても尚、与えられている使命を果たすことに生き甲斐を持つことである。私達には、自分に与えられた神の恵みを、次の世代に伝える使命がある。オリンピックの男子400mリレーで日本チームが銀メダルを獲得し、大きな感動をもたらしたように、信仰の「バトン」を次の走者に手渡すことが、私達に与えられた使命である。もし、私達がその「バトン」を繋ぐことに失敗したら、そこで宣教のリレーは途絶える。ですから、私達は、この「バトン」を繋ぐという尊い務めを最後まで諦めてはいけない。「一生の終わりに残るものは、我々が集めたものでなく、我々が与えたものだ」ジェラール・シャンドリー。私達は、「バトン」を貯め込むのではなくて、託された「バトン」を次の世代に手渡して、空手でこの世の旅路を終えたいものである。