10月「教会学校月間」を迎えた。分級では、御言葉を一緒に聴き、聴いた御言葉を分かち合い、その御言葉に押し出されて生活することを願っている。それは「変えられる喜び」を分級で味わうことでもある。先月、教育委員会で学んだ『教会学校ブックレット』の中に「変えられる喜び」という文書が目に留まったので以下に紹介したい。
“私たちは神のみ心を聞きたいと願って、聖書を共に開きます。その時に必要なのは聖書を「わかっている」人でも「学び終えた」人でもありません。「わかりたい」と願って手を伸ばし続けている人です。常に聖書の前でルーキー(新人)である人のことです。初めて聖書を開くように読み、互いの考えを聞き合います。すると、これまでの自分の捉え方が揺さぶられ、殻が破られていくような体験が与えられます。聖書を真ん中にしたところでは、幼児や新来者にベテランのリーダーが「教えられる」ということが常に起こり得るのです。
私たちが正直に接し、忌憚なく意見交換をする場合、時にお互いの間に緊張が走ることもあるでしょう。しかし、聖書には常にひっくりかえされる人間が描かれているではありませんか。自分にとって受け入れがたい出来事の突入によって、今までの「安定」に亀裂が入り、砕かれてしまう人間です。でも、そういう営みをくぐってこそ、より自由に、より開かれ、より分かち合えるお互いに成っていくという約束を聖書は私たちに告げています。これが聖書の神の「交わり」「平和」の創り方なのでしょう。確かに痛みを負うこともありますが、「神にひっくりかえしてもらっているお互いなのだ」という信頼がそこで育まれていくのです。主イエスはおっしゃるでしょう。揺さぶられ、壊され、立ち尽くすときこそ「産みの苦しみの始まり」だと。「見よ、新しいものが生じた」と。この主の約束をもらっている嬉しさを、それぞれの教会学校の現場で思う存分味わいましょう。“(第一章 教会の使命 P4)
変えられることは、喜びと共に、痛みをも伴うことが多い。それは「陶工は粘土で一つの器を作っても、気に入らなければ自分の手で壊し、それを作り直すのであった。」エレミヤ18:4とあるように、陶工である神に自分が壊されるという経験をするからである。今まで通りの生き方の方が楽であり、安心であるかもしれないが、それではいつまで経っても「変えられる喜び」を経験することはないだろう。分級で、御言葉を聴き、御言葉を分かち合うことによって、お互いに自我が打ち砕かれ、新しく作り直されるとしたら、これほど幸いなことはない。「成したまえ 汝がむね 陶作り わが主よ われはただ 汝が手の うちにある 土くれ」新生讃美歌627