命(ぬち)どぅ宝(命こそ宝)      神谷 武宏

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沖縄では「戦後ゼロ年」という言葉があります。日本は1945年の敗戦にて終戦を迎えましたが、しかし沖縄では未だ戦争の悲劇が続いています。1952年4月28日、日米の「平和条約」が施行され、日本は米軍統治下から主権を回復しましたが、その条約には沖縄が米軍の直接統治に置かれることが含まれており、日本は沖縄を売って戦後の自由を獲得するのです。沖縄では4月28日を「屈辱の日」と呼んでいます。

沖縄は1972年に「戦後」27年を経て日本への「復帰」となりましたが、その時の思いは日本国憲法の下に身を置くことに希望を見出したのです。憲法の下では沖縄に米軍基地があり続けることは違法であり、自ずと整理縮小へと向かう事を期待しましました。しかし「復帰」後も米軍基地は在り続け、在日米軍基地の70,3%が日本国土の0,6%にすぎない沖縄に集中しています。この現状は日本国憲法よりも日米安保、日米地位協定が上にあるということです。

沖縄は「戦後」70年余、常に米国の戦争に巻き込まれ加担させられ続けます。また米軍がもたらす事件事故は後を絶たず、2016年4月にまたしても20歳の女性が拉致強姦、殺害遺棄されました。この現状は戦後でしょうか?「命どぅ宝」は沖縄の金言です。その金言(歴史)に逆行する状況は“悲しみ”そのものです。

「命どぅ宝」の言葉が生まれたのは琉球の政治家「蔡温」(1682~1762)の影響が大きいと言われます。彼が残した言葉に「何ものにも勝って命こそが大切である。他の全てのものは失っても取り戻すことができるが、命だけは取り戻すことができない。何よりも命を大切にすべきである。」この言葉は琉球の思想として受け継がれています。ゆえに琉球には戦争をするという想定はないのです。

1879年、日本(明治政府)による「琉球処分」が行われました。「処分」とは日本の政治的視点であり、琉球から見れば「琉球併合」の何ものでもありません。日本は軍隊、警察官合わせ600人余をもって琉球を制圧します。この時、琉球国最後の王であった尚泰が首里城を明け渡す決断をしますが、その背景には祖国が滅びゆく中で武器を手にして戦う若者がいたのです。命を粗末にしてはいけないと首里城を明け渡すのでした。その歴史背景が、後に琉歌「命どぅ宝」が生まれます。

戦(いくさ)世(ゆ)んしまち/みるく世(ゆ)ややがてぃ/嘆(なげ)くなよ臣下(しんか)/命(ぬち)どぅ宝(たから)(戦争の世は終った/平和で豊かな世がやって来る/嘆くなよおまえたち/命こそ宝)、国は滅びても人の命に勝るものはないという先人の教えがここにあります。この琉球の歴史は聖書の教えと重なるように思えます。       (普天間バプテスト教会牧師)