教会はしばしば舟に譬えられ、舟が教会を表すシンボルとして用いられてきた。それは、教会が嵐の中で揺れ動く舟に似ているからである。主が弟子たちと一緒に舟に乗り込まれた時、激しい突風が起こり、舟は沈みそうになった。弟子たちが「先生、溺れそうです」と叫んだにも関わらず、主は一人安らかに眠っておられた。その姿に弟子たちはつまずくが、主からすれば、自分を起こした弟子たちの行いに、「なぜ怖がるのか。まだ信じないのか。」マルコ4:40と不信仰を見た。弟子たちからすれば、眠っているということは、何もしてくださらないことと同じではないかと思った。もし弟子たちが嵐の中で、主の御手に委ね切ることができたら、確かな平安が与えられ、その信仰こそが舟を一歩また一歩と、前へ進ませることができたのではないか。
おそらく弟子たちは舟の中でそれぞれの持ち場を守り続けたことであろう。ある者は舟の舵を握って、何とか向こう岸に向かうように懸命に舟を操り、またある者は舟を進めるために、力一杯オールを漕いだであろう。しかし、風と荒波が行く手から押し寄せてきて舟は進みあぐねていた。その逆境の中で、ある人が言うように、「舟は揺れる。しかし、沈まない」のである。教会という舟は揺れるが、沈まないのである。それはこの舟に主が乗り込んでいてくださるからである。この主が舟に降りかかる荒波を静められたように、教会に降りかかる危機と戦ってくださるのである。
主は、「向こう岸に渡ろう」マルコ4:35と言われた。教会という舟は、主からこの御言葉を語りかけられている。主が舟に乗り込んだ弟子たちに示された向こう岸とは、ガリラヤの向こう岸にあるゲラサ人の地方であった。ユダヤ人がまだ足を踏み入れたことのない異邦人の地で、ユダヤ人からすれば神の救いの御手が決して届かないような辺境の地であった。弟子たちの伝道計画になかった地であった。しかし、主は向こう岸にあるゲラサ人の地に行き、彼らにも福音を告げよと呼びかける。
私たちにとって渡らなければならない向こう岸がある。その渡らなければならない向こう岸とは、ある方にとっては家族であり、ある方にとっては友人である。家族にも、友人にも御言葉を届けたい。しかし、私たちは、家族や友人に御言葉を届ける前から、私の夫には無理だ、あの友人には無理だと諦めてしまってはいないか。諦めの中で重い腰を下ろしていないか。しかし、主は私たちに語りかけられる。「向こう岸に渡ろう。向こう岸にも神の御言葉を届けよう。神の救いを運んで行こう。」