親しい人たちが次々と亡くなっていき、「年を取ると言うことは寂しいことだ」との声を聞く。確かに、同世代が少なくなるのは寂しいことである。しかし、主を信じる者にとっては、天国での再会の日が近づいていることも確かである。『やがて天にて』という賛美の中に、「やがて天にて喜び楽しまん 君にまみえて勝ち歌を歌わん」とあるが、天国は私たちには想像がつかないほど、「喜び楽しむ所」である。その天国を待ち望むと、死ぬことへの恐れも消えていくのではないか。有名な詩編23篇4節に、「死の陰の谷を行くときも わたしは災いを恐れない。あなたがわたしと共にいてくださる。」とある。主を信じる者にとっては、復活の主が共に歩んでくださることで、死はすでに主によって滅ぼされており、「死の谷」はもはや、「死の陰の谷」にしか過ぎない。
ですから、鈴木正久牧師がガンで余命わずかと知らされた時、「私は『死を待つ』のではなく、『キリストの日』に向かって歩みを進めているのです。」と、天国の希望を語ったのである。上尾教会の墓石には、フィリピ3章20節のみ言葉、「わたしたちの本国は天にあります。」を取って、「我らの国籍は天にあり」と刻んでいる。この世の国籍や故郷は一時的なものだが、私たちの国籍は天にある。なんという特権、なんという祝福ではないか。天に国籍があるかないかの区別がはっきりとする主の再臨の日が、必ずやって来る。その日、主を信じるものはパウロが言うように、「わたしたちの本国は天にあります。」と告白し、天の御国に凱旋することができるのである。
私たちは、今しばらく、この地上を生きていかなくてはならない。その私たちの道のりにおいて、召天された方々の信仰に倣う必要があるのではないか。パスカルは、「私たちは、天に召された故人から受けたものを、私たちの人生の中に活かすことによって、いわば、故人を自分の内に再び生き返らせることになる。なぜなら、故人の願いが、そのまま私たちの中にあって、今もなお、生きて働いているからだ。」と語る。パウロも「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」 フィリピ3:17と語る。それは、自分を誇るのではなく、一方的な主の十字架の贖いによって救われ、福音宣教の戦いに生かされている自分に倣ってくださいと言っているのだ。召天された方々も、「兄弟たち、皆一緒にわたしに倣う者となりなさい。」と同じことを、私たちに語りかけているのではないか。信仰の戦いを立派に戦い抜き、本国である天国に帰って行かれた上尾教会の召天者に倣って、私たちも信仰の歩みを最後まで全うさせて頂きたい。