収穫の秋を迎えたが、伝道においてはどうだろうか。「収穫は多いが、働き手が少ない。だから、収穫のために働き手を送ってくださるように、収穫の主に願いなさい。」ルカ10:2.と、主は私たちに、伝道においても「収穫は多い」と約束してくださった。「収穫は多い」つまり主による救いを受け入れ、信じる者がたくさん与えられるという。別の言い方をすれば、伝道は決して徒労に終わらない、ということである。しかし、私たちは、今、伝道が停滞していて、収穫はむしろ少ないように思えるのではないか。
最近、連盟事務所より「2022年度の教勢報告書」が送られてきた。全国316教会・伝道所の教勢一覧が記されているが、残念なことに、どの項目(現在会員、受浸者、礼拝、祈祷会、教会学校、献金)も減少の一途を辿っていた。ただ、召天者だけは増えていた。この傾向は、この10年に顕著に表れ、今後もこの傾向が続くことが予測される。それは連盟だけではなく、キリスト教界全体に見られる傾向である。
この伝道が実を結ばないことへの落胆は、本当は見当違いなものである。なぜなら私たちは自分の力で伝道の実を結ばせるのではない。私たちが畑を耕し、種を蒔き、世話をして育て、実を結ばせるのではない。その全てをしてくださるのは「収穫の主」である神である。その神が畑を耕し、種を蒔き、世話をして成長させてくださり、実を結ばせてくださる。私たちがするのは、その実りを刈り入れるだけである。
「収穫は多いが、働き手は少ない」とは、その豊かな実りを刈り入れる「働き手」が少ないということである。しばしばこの「働き手」は牧師のことであり、だから「収穫のために働き手を送ってくださるよう」に願うとは、神学校に行く献身者が起こされるよう祈り求めることだとされてきた。しかしそれだけではない。それにも増して、信徒一人ひとりを収穫のための働き手として用いてください、と祈り求めることである。
私たちのなすべきことは、自分の力で実りを増やすことではなく、すでに実っている豊かな実りを刈り入れることだけである。だから私たちは落胆するのではなく、「収穫の主」が豊かな実りを結ばせてくださっていることに信頼し、自分自身が経験している主による救いの恵みを証しし、又、神の国の福音を伝えるために用いられることである。よき「働き手」になるためには、学びや訓練が必要である。そのために、神学校の学びは大変有益である。今、神学校は、ライブやビデオで、いつでも、どこでも学べる。私たちは「収穫のために働き手」となって、収穫が多いことを実感したい。