このコロナ危機の中で、生活が困窮している人も多い。国は国民に「健康で文化的な最低限度の生活を営む権利」憲法25条を保障しなければならないのに、休業や失業で、又、協力金の支給の遅れで、生活が苦しくなる人が続出している。この危機の中でも、国民が安心して生活を送れるように、真の「共助」「公助」が必要なのである。
「自助」という言葉をよく聞く。菅首相自身も、就任会見で「私が目指す社会像。それは自助、共助、公助、そして絆であります。まずは自分でやってみる。」と述べた。又、それに先立ち、「自分でできることは基本的には自分でやる、自分ができなくなったら家族とかあるいは地域で協力してもらう、それできなかったら必ず国が守ってくれる。そういう信頼をされる国、そうした国づくりというものを進めていきたい。」とも述べていた。
それに対して、ホームレス支援活動を行っている奥田知志先生はこう語る。
『いうまでもなく「自助」は大事だ。だが、「まずは自分で」は、必ずしも「自助」を大事にすることにはならない。まず自助、自助がダメらなら共助、共助がダメなら公助」という「助の序列化」は、一見わかりやすいが実は「空論」だ。「自助」というダムが決壊する、次に「共助」というダムで受け止める。それが決壊すると最後は「公助」というダムが機能する。生活保護が「最後のセーフティーネット」と呼ばれるのは、そういう意味である。だが、「最後のセーフティーネット」では遅いのだ。そもそも「公助」が、その前に存在する「自助」や「共助」というダムが「決壊すること」を前提に想定されていること自体が問題なのだ。「ダム決壊論」の弱点は、まさしくそこにある。本当に「自助」を尊重したいのなら、「自助」と「共助」、特に「公助」が並行的に機能しなければならない。なぜか。理由は実に単純だ。「人は独りでは生きていけない」からだ。それが人間だと私は思う。「私(自助)」が決壊する前に、「共助」、いや、なによりも「公助」が活用できること。それが、ほんとうの意味で、菅氏が言う「自助」の尊重となる。』
聖書も「共助」「公助」を神の民の使命にした。古くは出エジプト記22章で、「寄留者を虐待したり、圧迫したりしてはならない。」「寡婦や孤児はすべて苦しめてはならない。」と記し、日頃から助け合うセフティーネットを大切にした。それが新約時代にも受け継がれ、教会の大切な使命になる。今、礼拝で学んでいるテモテの手紙の中でもエフェソ教会が具体的に実践している。今、助け合う社会、助け合う教会が求められている。私たちも安心して共に生きる社会の実現を目指して歩んでいきたい。