八月平和月間に思う       教会員

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国と国の間は平和であってほしい。人と人の間も平和であってほしい。誰しも思い願っている。日本は世界に冠たる素晴らしい平和憲法を持っている。しかし、この憲法にそって歩んでいるとは言い難いのが現状である。

連盟の平和宣言、2018年「バプテスト誌」5月号掲載の城倉牧師のメッセージ、日本国憲法前文と第9条をよく読んでみた。何よりも聖書のみ言葉に思いを巡らしてみた。「敵を愛し、自分を迫害する者のために祈りなさい。」マタイによる福音書5章44節、「平和を実現する人々は、幸いである。その人たちは神の子と呼ばれる」マタイによる福音書5章9節。「国は国に向かって剣を上げず、もはや戦うことを学ばない。」イザヤ書2章4節、等々、イエス・キリストは報復を禁じ、敵を愛しなさいと教えられた平和の主である。

平和宣言には「教会は戦争の価値観を否定する。教会は戦争に役に立たない群れとして生きる」とある。城倉牧師は「憲法9条は、制定時の解釈に立つと、個別的自衛権の否定と非武装をその趣旨としていること。在日米軍も自衛隊も9条で禁止されている武力の保持である。」と解釈している。また、城倉牧師は「自衛隊は軍隊ではなく災害救援隊として全世界に派遣されることで、平和を創り出す働きができるのでは」と提案している。正論と思う。

個別的自衛権はおろか、2014年には集団的自衛権も閣議決定され、日本はいつでも戦争ができる国になりつつある。国の歩みは平和を創り出す方向と反対の再軍備の道を歩んでいる。先の戦争で多大な犠牲を強いられた沖縄から米軍基地をなくすことは.日本全体の課題であるにも関わらず、県民の意志を無視して、辺野古に新基地を作ろうとしている。民主主義国家でありながら、県民の意志は無視されている。

このような世の中の流れに逆らって、平和を創り出す方向に歩むのは勇気がいる、決断がいる、信仰がいると思う。戦争に役に立たない人として生きるには覚悟がいる。その覚悟が求められていると思う。教会の子供たち、保育園の子供たち、すべての子供たちの未来が平和でありますように。祈らずにはいられない。