私は教会に来ている方に、「イエス様を信じて、クリスチャンになってみませんか。」とお勧めすることがある。「はい、イエス様を信じて、クリスチャンになりたいです。」と応答してくださると嬉しいのだが、中には、「自分はまだまだ信仰は足りません。善い行いも出来ていません。聖書も深く知りません。」と、遠慮される方もおられる。しかし、信仰は自分の力で生み出すものではない。信仰は、神からの贈り物である。また、善い行いができないからこそ、罪を赦してくださるイエス様を信じ、聖書を深く知らないからこそ、イエス様を信じることによって、聖書を深く知ることが出来るのである。
「事実、あなたがたは、恵みにより、信仰によって救われました。このことは、自らの力によるのではなく、神の賜物です。行いによるのではありません。それは、だれも誇ることがないためなのです。」エフェソ2:8-9。人が救われるのは、神の「恵み」によるものであり、イエス様を信じる「信仰」によることであり、神からの「賜物」であり、「行いによるのではない」。自分の信仰が足りているとか、足りていないかということではない。
「イエス様を信じるだけで人は救われるのですか。私にはどうも納得がいきません。」という質問を頂くことがある。もしあなたの誕生日か何かの記念日に、親しい方から素晴らしいプレゼントが贈られたら、あなたはどうするか。多分嬉しそうに笑みを浮かべて、「有難うございます!」と言って、そのプレゼントを喜んで受け取るのではないか。
もし、あなたが「それはとても高価なものですから、今お金を払いますから、ちょっと待ってください。」と言ってお金を払おうとしたら、相手の人には大変失礼になり、その人はとても不愉快な気分を味わうに違いない。あなたにプレゼントした贈り主は、それを素直に感謝して受け取ってくれたら、それが一番嬉しいのではないか。贈り物は、何の代価も払わないで頂くからこそ、それは贈り物であり、プレゼントなのである。
「罪が支払う報酬は死です。しかし、神の賜物は、わたしたちの主キリスト・イエスによる永遠の命なのです。」ローマ6:23。聖書が教える救いは、対人関係の悩みとか、苦しみ、貧しさ、病気の苦しみ、不安と孤独感などからの救いというだけではなく、罪と死後の神の永遠の刑罰からの救いである。そして、「信仰」によって、罪の赦しも永遠の命も頂くことができる。「恵みによる救い」を頂くために、私たちがすべきことは、ただ素直に感謝して受け取ることである。受け取った時に、神の贈り物の恵みを深く味わい知ることができる。信仰は、神からの贈り物である。