信仰の習慣を大切に!

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先週の祈祷会は、「ダニエル書6章」を学んだが、苦難の中で、信仰者はどのように生きたらよいか、大きな示唆を与えられた。ダニエルがメディアのダレイオス王から大変気に入られたことを快く思わなかった他の大臣たちは、何とかダニエルの欠点を見つけ出し、彼を今いる地位から引きずり降ろしたいと企てた。30日の間、王以外の者に願い事をする者があれば、その者は獅子の洞窟に投げ込まれるという法律を彼らは作った。王は、大臣たちのダニエルに対する企みを知らずにいたので、すぐに了解した。一度、王が署名するとその法律を変更することは不可能であった。

ダニエルはこれらのことを知ったが、礼拝を中止することはなかった。自分が神に祈り、賛美する姿を見られたならば、自分は獅子の洞窟に投げ落とされ、食い殺されるということを知っていた。しかし、ダニエルはたとえ命が脅かされるとしても、変わることなくいつも通りの信仰に生きた。ダニエルは王が禁令に署名したことを知っていたが、家に帰るといつものとおり二階の部屋に上がり、エルサレムに向かって開かれた窓際にひざまずき、日に三度の祈りと賛美を自分の神にささげた。」ダニエル書6:11

この「いつものとおり」とは、「習慣」と言い換えることもできる。「習慣」は、英語で「ルーティン」と言うが、ラグビーの五郎丸選手がキック前に毎回、手を合わせてルーティンしていたことを思い出す。決まった時に、決まった事を順番通りにしていく、それは私たちの信仰生活にとって大切なことである。その習慣が何かの拍子に崩れてしまうならば、それは大きな危機を招く。ですから、信仰生活は何か特別なことをするということではなくて、いつものように、いつも通りのことをすることである。

主も十字架にかかる前夜、ゲッセマネの園で祈られたが、そこは「いつものようにオリーブ山に行かれ」「いつもの場所に来ると」ルカ22:39‐40、ひざまずいて祈られた場所である。コロナ禍の中でも、私たちは主日礼拝に集い(或いは、Webで参加)、週の半ばに祈祷会に集う。又、毎日静聴の時を持つ。これらの事は、わざわざ手帳に書き込まなくても、体と頭が覚えているものである。信仰生活における習慣は、大したことはないと思うかもしれないが、決してそうではない。一見、余り目立たない、地味なようなものであっても、その生き方を生き抜く時、そこには真の信仰の強さが生まれ、大きな価値を持つのである。苦難の時にも、いつも通りのことができるのは、日頃からの信仰の姿勢にかかっていると言える。信仰の習慣を大切にしたい。