伝道は神のなさること

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いつもの年ですと、10月は会堂○○周年記念と謳って、外部から講師を招き、チラシを配布して、大々的に伝道してきた。しかし今年は、コロナの影響で3月から外に向けての伝道の働きは休止せざるを得なくなった。どのように伝道したらよいのか戸惑っていたが、最近は表立って伝道していないにも関わらず、新来者が次々と来れるようになった。改めて、伝道は神のなさることであると痛感している。

近藤勝彦先生の著書『日本の伝道』という書物の中に、下記のように記されていた。

伝道は神ご自身の御業です。私たち人間の小さな努力が用いられますが、しかしそれは神ご自身がその御計画によって用いてくださるのです。「神の選び」がまずあります。聖書に、神は「世の無に等しい者」(1コリント1:18)を選ばれたとあるように、伝道する者を召すのは、「神の選び」によります。イエス・キリストの御言葉に「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ。」(ヨハネ15:16)ともあるように、キリストによる神の選びからキリストを信じる信仰も、救いも、そして伝道も始まっています。伝道は、神の御計画に基づき、「神の選び」から始まります。ということは、伝道は本来的な主体は神であるということです。神が伝道されるのです。伝道は「神の伝道」(Missio Dei)です。』

伝道は「教会に委ねられた業」であるから、人間が立てた計画を神は用いてくださると考えてきたのでないか。その一方で、計画が上手くいかず、教勢が上がらないと、失敗だったとか、意味がなかったと、評価してしまうのでないか。しかしその時、「伝道は本来的な主体は神であるということです。神が伝道されるのです。」という視点を見失っているように思う。「神の伝道」に、私たちは選ばれて仕えているのである。神は教会に先立って、すでにこの世界で救いの業をなさっておられる。教会はそれに従っていくだけである。教会は、その神の働きを共に担い、この世に仕える群れである。伝道とはそもそも人間が何かを成し得るようなことではなく、私たちはただ福音の言葉を宣べ伝えることによって、神の御業に参与させて頂くことである。

私たちは、このコロナ危機においても、「御言葉を宣べ伝えなさい。折が良くても悪くても励みなさい。」Ⅱテモテ4:2と勧められている。神ご自身が教会の外に出て行って、その救いの業をなさっている。この神に従う教会も出て行かなければならない。毎週の礼拝の最後の「祝福と派遣の祈り」で、私たちはこの世に送り出されるのである。自分の遣わされた場所で、言葉と行いをもって、主を宣べ伝えていこうではないか。