人から相談を受けた時、「自分にはどこにも居場所がないのです」という声をよく聞く。家庭に居場所がない、学校に居場所がない、職場に居場所がない、この社会のどこにも居場所がないというのである。それは、自分が誰からも必要とされていない、誰からも認められていない、誰からも愛されていない、別の言い方をすれば、誰とも繋がっておらず、どこにも属していない、と言うことである。そんな思いを感じる時、私たちは自分が安心して居られる居場所がどこにもないように感じる。
皆さんは、死にたいと思ったことはないか。そう思う理由として、自分には、安心していられる「居場所」がないと感じるからではないか。この社会の中に、自分の居場所がないと感じる時、死ぬ以外にないという気持に追い込まれたとしても不思議ではない。居場所の問題は、私たちにとって、それほどに重いのである。
誰にとっても自分の「居場所」が必要である。人と一緒にいても自分だけ居場所がないと感じる時の寂しさ、惨めさほど辛いものはない。だから、人は自分の居場所ということにとても敏感で、闇の中でさ迷うように、自分の居場所を探し、自分の存在を受け止めてもらえる場所を求めて生きている。「あなたは大事な存在なのだ」「あなたが必要なのだ」と、ありのままを受け入れくれる、そんな存在を求めている。
主イエス・キリストは、「居場所のない人」だった。ローマの皇帝の人口調査の勅令のために、マリアとヨセフは、ベツレヘムに旅をしなければならなかった。その上、ベツレヘムに来てみると、「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」ルカ2:7のである。更に、ヘロデ王の迫害を恐れて、エジプトへ避難しなければならなかった。イエスは「ホームレス」となり、「難民」となった。神の御子であるイエスは自らこの地上に生きて、「居場所のない人」になられた。イエス自ら、「狐には穴があり、空の鳥には巣がある。だが、人の子には枕する所もない。」ルカ9:58と言われた。それは、イエスご自身が、「居場所のない人」を救い、助けるためであった。そして、「わたしの父の家には住む所がたくさんある。もしなければ、あなたがたのために場所を用意しに行くと言ったであろうか。」ヨハネ14:2と、すでに居場所を用意してくださっている。
私たちもまた、主イエスに従って、「居場所のない人」となり、「居場所のない人」のために生きる歩みを指し示されている。主イエスにこそ、私たちの魂の居場所、人生の居場所があると、周りの人々に伝えるクリスマスにしたいものである。