先週、孫を連れて横浜にあるズーラシア動物園に出かけた。そこで驚くべき光景を見た。放し飼いにされたチーターとシマウマが仲良く一緒におり、シマウマはチーターを恐れる気配は全くなかった。その光景を見て、「狼は小羊と共に宿り、豹は子山羊と共に伏す。子牛は若獅子と共に育ち、小さい子供がそれらを導く。牛も熊も共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛もひとしく干し草を食らう。乳飲み子は毒蛇の穴に戯れ、幼子は蝮の巣に手を入れる。私の聖なる山においては、何ものも害を加えず、滅ぼすこともない。」イザヤ11:6-9を思い出した。一緒にいられる筈のない者同士が共にいる、しかも平和で共存するという、本来、あり得ないことが現実に起こっていた。
しかし、この世界の現実においては、今尚、狼が小羊を食らい、豹は子山羊を攻撃し、熊は牛を襲い、人がお互いに傷つけ合い、害を与え合い、滅ぼし合っている。イザヤが預言した救い主によってもたらされるはずの平和は一向に実現せず、むしろ遠のいているように感じられる。主イエスによる救いの業は失敗だったのか。そんな思いに陥ることはないか。しかし、主イエスこそ、イザヤが預言したように、神がこの世に遣わして下さった救い主としてのみ業を見事に成し遂げて下さった。
「彼の受けた懲らしめによって、私たちに平和が与えられ、彼の受けた傷によって、私たちは癒された。」イザヤ53:5。主イエスは、人々の罪を全て背負って十字架にかかることによって、救い主としてのみ業を成し遂げ、平和の道を示めされた。この道は、世界の支配者となって全ての人を服従させることによって平和を実現するような、手っ取り早い道ではない。「今、日本の平和が脅かされている」と言って、安保法制を強行採決した。しかし、これは平和へ向かうことではなく、戦争へ向かうことである。
ボンヘッファーは、「平和は安全保障の反対である。安全を求めるということは、相手に対する不信感をもっているということである。この不信感が、再び戦争を引き起こす。安全を求めるということは、自分自身を守りたいということである。平和とは、全く神の戒めに全てを委ねて、安全(保障)を求めないということであり、信仰と服従において、諸民族の歴史を、全能の神の御手の中におくことである。武器をもってする戦いには、勝利はない」と語る。主イエスは、その安全保障という誘惑を退けて、敗北にしか見えない、十字架の死への道を歩まれた。この主イエスによる救いを信じて、主イエスが歩まれた真実の平和への道を歩んでいこうとするのが、私たちキリスト者である。