上尾教会では、コロナウイルスの感染防止の観点から3月より「主の晩餐式」を中止している。主の晩餐式が、今の状況では、中止もやむなしと諦めていることに対して、ある牧師の「礼典の危機を危機と感じないことこそ危機」との指摘が目に留まった。私自身、主の晩餐式に対する必要性が希薄になっていると反省させられた。
主の晩餐式は、主イエスが十字架で裂かれた体、流された血潮を記念して私たちがいただくもので、主に命じられたように、いつの時代も教会はこの礼典を大切に守って来た。それは、パンと杯に与ることよって、主の贖いの恵みを深く味わい、罪を悔い改めて、主と一つになることを再確認してきた。主の晩餐式が「コミュニオン」と言われるのは、ここにこそ主との交わり、主とのつながりがあるからである。
礼拝の中心は「御言葉」と「礼典」である。礼典(主の晩餐とバプテスマ)は、「見える神の言葉」と言われるほど大切なものである。礼典の執行は、教会の生命線とも言える。とはいえ、礼典の危機を危機と感じたとしても、今は執行できない、あるいはすべきでない状況にあることも確かである。しかし、何か月も主の晩餐の恵み無き礼拝が続くのは、教会の命を失うことになりはしないかと危惧するのである。
諸教会は、コロナウイルスの感染の拡大に伴い、主の晩餐式に対して、様々な試みをしている。ある教会では、「エアー・コミュニオン」を会堂で行う。パンと杯はなく、御言葉と祈りで、主の血と体を覚え、互いが一つであることを感謝する。又、ある教会ではネット配信で「遠隔主の晩餐(テレ・コミュニオン)」を行う。各家庭でパンとブドウ液を準備し、牧師がパンと杯の祈りを捧げると、それに応えてパンと杯に与る。又、牧師や執事が信徒宅を訪ねて「訪問晩餐(デリバリー・コミュニオン)を行う。
これらは「物質性なき主の晩餐」と「実在共有性なき主の晩餐」である。どちらも本来の主の晩餐式ではなく、緊急事態下における主の晩餐式の一形態にすぎない。しかし、このような主の晩餐式の形態を、今回の緊急事態下に限定することはない。病院や施設に入り、教会に来たくても来れない教会員が増えていく中で、「訪問晩餐」は、上尾教会でもすでに行ってきており、「遠隔主の晩餐」も、ネットのZoomを使えば、多くの教会員の参加も可能である。教会に共に集い、共に主の晩餐の恵みに与ることが当たり前でないとしたら、様々な工夫をして、主の晩餐式を試みることもよいだろう。礼典の危機を危機と感じることが、新たな道を開くのである。