今年度の主題は、昨年度に続いて「主の愛に生きる教会」とした。主の愛に生きる教会として、深く掘り下げて歩んでいきたいとの願いからである。その指針として、
「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい、また、隣人を自分のように愛しなさい。」ルカによる福音書10章27節という聖句を掲げ、毎週の礼拝の「招きの言葉」として唱えてきた。この御言葉は、お題目のように唱えることに意味があるのではない。唱えながら、どのように実践するかが問われている。
愛するとは、どういうことであろうか。私はアレキサンダー・マクラーレン牧師の言葉を思い出す。「愛するとは、愛する人が望むことをわが望みとして行動し、その望みが叶えられた時に、共に喜ぶことである。」 上尾教会では今、多くの方が「友愛チーム」の一員となって、送迎のために奉仕してくださっている。そのお陰で、集会に参加できる方の何と多いことか。その喜ぶ姿を見て、奉仕する者も嬉しくなるのではないか。愛する人が何を必要としているのかをキャッチして、自分にできることを行っていく、そして、喜んでいる姿を見て、主に感謝を捧げていく、これが愛するということではないか。病床に見舞いに行く、施設や家庭を訪ねる、そして、祈りを合わせる・・これらの事が、教会に来たくても来れない方にとっては、大きな慰めになるだろう。
パウロも「喜ぶ人と共に喜び、泣く人と共に泣きなさい。」ローマ12:15と語る。「共に喜び、共に泣く」とは、共感することである。それは、同じ思いを抱く、同じように感じるということだけではなく、その人にとっての辛いことや本当に克服したいこと、求めていることを共に求めていくという思いで関わることでもある。それだけに、自分も傷ついたり、悲嘆にくれたり、何の力にもなれないという無力感を感じることがあるかもしれない。しかし、この共感こそ、主の愛に生きる教会を生み出すのである。
私たちは、人間の力では人を愛することはできない。愛する人の願いよりも、自分の願いを優先し、相手を悲しませてしまうことが何と多いことか。自己愛に翻弄される私たちは、神から愛(慰め)をいただかない限り、人を愛する(慰める)ことはできない。「神は、あらゆる苦難に際してわたしたちを慰めてくださるので、わたしたちも神からいただく慰めによって、あらゆる苦難の中にある人々を慰めることができます。」Ⅱコリント1:4。「神からいただく慰め」とは、主の十字架の赦しに与ることである。「こんな罪深い私さえ、主は十字架にかかって愛してくださった」と気づく時、愛する者に変えられるのである。