主イエスが十字架の道を歩まれた「受難週」を迎えた。今日は、主がろばの子に乗ってエルサレムに入城され、群集がしゅろの枝をもって、「ホザナ(今、救ってください)」と叫んで出迎えたので、「しゅろの主日」と呼ばれている。そして木曜日には、「最後の晩餐」が行われた。この晩餐の席で、主は弟子たち一人一人の前にひざまずいて、彼らの足を洗われた。主は、体の中で最も汚れた足を洗うことを通して、御自身のかかられる十字架こそ、私たち人間の内面にある最悪の汚れである「罪」を引き受ける救いのしるしであることを示された。上尾教会ではこの最後の晩餐に倣い、水曜日の祈祷会で、「最後の晩餐の再現」を行うので、皆さんの出席を期待している。
金曜日は、主が十字架にかかられた「受難日」である。主は、鞭打たれ、その傷んだ肩に十字架を背負い、ゴルゴダの丘まで背負って行かれた。そこで、主は十字架につけられ、最期の時を迎えたが、主は十字架につけた者たちのために祈られた。「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」ルカ23:34。一体誰が、何の罪もないのに、迫害する者のために、このように祈ることができるのか。
私たちは、自分のことを理解してもらえず、非難されたり、責められたりすると、「父よ、彼らを裁いてください。」と祈っている自分があるのではないか。そして、うまく行かないことがあれば誰かのせいにしたり、言い訳をしている自分があるのではないか。少なくとも、私にはある。御言葉を聴き、霊で満たされた後も、またすぐに自己中心になってしまう私がいる。主が流された血は、こんな私のためであった。
「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」この「彼ら」とは私自身のことである。この祈りは私のための祈りでもある。「十字架につけろ、十字架につけろ」と叫ぶ群集の中に私がいる。議員の中に私がいる。兵士の中に私がいる。ピラトの中に私がいる。彼らの姿は、まさに私たちの姿ではないか。私たちの罪のために、贖いの業を成し遂げてくださった、主の十字架の赦しに感謝したい。
マーチン・ルーサー・キング牧師が暗殺されたのは、1968年4月4日。それは受難週の最中の出来事であった。直後の礼拝で、「父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです。」との祈りが何度も唱えられた。キリスト者は、決して暴力で抵抗しなかった。ただ赦しによって抵抗した。主の十字架の赦しこそ、和解の道であることを知っていたからである。その和解の道を私たちも歩んでいきたい。