主に望みをおく人は新たな力を得る
「主に望みをおく人は新たな力を得 鷲のように翼を張って上る。走っても弱ることなく、歩いても疲れない。」イザヤ40:31。今年度のこの聖句を、噛みしめている方も多いことだろう。私たちの人生には、病気や心労のために、弱ることや疲れることが何と多いことか。先週のアシュラムの時、一人の方が証をしてくださった。癌にかかり、医師からは「もはや手術ができない状態です」と言われて落ち込んでいた時、アシュラムの仲間が色紙に慰めの言葉を贈ってくださった。その言葉に励まされ、手術をしてくださる医師にもめぐり逢い、関西の病院にまで行って手術を受けられた。「私はこんなに元気になりました。神様に委ねるとはどういうことか学びました。生かされた命を神様のために用いたいです。」その言葉に、私たちもどれほど励まされたことだろうか。
外的条件が整った人が「新たな力を得る」のではない。そうではなくて、「主に望みをおく人」が疲れから解放され、「新たな力を得る」のである。私たちは、常に何かができる自分の方に目を向けがちだが、「望みをおく」ことの中心は、自分の無力さを認めながら、ただ主の救いを必死に待ち望むことである。できるとか、できないとかの人間的な枠を超えて、神の御業に期待することである。今、「主に望みをおく人」の心に、主ご自身が入って来てくださり、死に打ち勝たれた主の力が働くのである。
私たちの造り主に望みをおく信仰以外に、弱り果てた心を再び強くし、命を得る道はない。私たちが今、疲れ果てているならば、命の根源である神への信頼を失っていないかどうか点検してみる必要がある。私たちは、いずれ死に至る。そういう意味において、私たちは徐々に弱り果てていく存在である。それなのになぜ、「鷲のように翼を張って上る」ことができるのか。それは、「わたしを信じる者は、死んでも生きる。」ヨハネ11:25と主が言われたように、主を信じる者に、「永遠の命」が与えられたからである。だから、「死ぬことなく、生き長らえて 主の御業を語り伝えよう。」詩118:17という主から託された、尊い、喜ばしい使命が私たちには与えられている。
神の恵みを語り伝える時、人は生きている喜びを最も感じることができる。この喜びは、この世からは決して得ることができない喜びである。私たちは主から新たな力を得て、「主に望みをおく私は、鷲のように強く生きることができる。」と主を証し、行く先々で、主の御業を語ることができる。主に望みをおく、「信仰の翼」があれば、たとえ困難な状況にあったとしても、そこから飛び立つことができるのである。