主との楽しい出会い

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旧統一教会の「二世信者」(「宗教二世」と呼ばれる)の存在が大きな社会問題として取り上げられている。それは、親の信仰によって信者の子どもたちの信仰や、進学・就職、恋愛・結婚などの自由を奪うことは、心身に苦痛を強いる人権侵害に他ならないからである。ここまでひどい人権侵害がないとしても、「信仰の継承」ということを考えさせられる。私たちクリスチャンにとっても、わが子に信仰をもってほしいと切に願うのではないか。主なる神を信じることが、自分を愛し、他者を愛して幸せな生涯を送ることができると、自らの信仰を通して感じているからである。

しかし、親がどんなに願っても自分の信仰をその子に引き継がせることはできない。「教会に行きなさい」「聖書を読みなさい」「お祈りしなさい」と命じることはできても、信仰にいたるか否かは、神の御手にあることである。親に反感を抱かせ、神を嫌いにさせることにおいて、信仰の強制ほど注意すべきものはない。

私たちバプテストは、生まれたばかりの子に、幼児洗礼を授けない。その子が自分の口で「主を信じます」と告白して、はじめてバプテスマを授けるのである。つまり、親の信仰を継承するということを認めていない。信仰はあくまで自分が主と出会って成立するものであって、誰かから受け継げるものではない。クリスチャン家庭に生まれても、両親の信仰とは別に、個人的に主に出会う経験によってもたらされる。親から子へ、知識(教理)は継承できても信仰は継承できない。信仰は知識によって至るものではなく、主との出会いによって至るものである。だから、親、又は教会は、子どものために、主との楽しい出会いの機会を沢山作ってあげることが大切である。キャンプ、バーベキュー、お泊り会、ピクニックなど、家族だけでは味わえない楽しい教会の交わりから、信仰に導かれる子どものなんと多いことか。

あるご夫婦は、お子さんが誕生した日から、毎夜お子さんのために祈り、お子さんが言葉を理解するようになるとその祈りはお子さんを加えて3人の祈りとなり、お子さんが親元を離れると再びご夫婦の祈りとなり、お子さんが30歳になる今も続けられているとのこと。親の語る一つ一つの言葉、一つ一つの行為が、幼い子に伝えられる神のメッセージとなり、子は親によって神を深く知り、自分をかくも深く愛してくれる神を、親と同じように信じるようになれたら、なんと幸いなことか。その日が来ることを信じて、忍耐強く祈り続ける、親であり、教会でありたい。