「ビジョン」の3人の方の証に感銘を受けた方も多いだろう。クリスマスにバプテスマを受けたばかりの冨岡優菜さんの初々しい信仰告白、又、65年前の12月にバプテスマを受けた向井浩子さんと大村泰子さんのいぶし銀の信仰の証。幾つになっても、こんな信仰生活を送れたらと、自分自身の信仰を正される思いがした。
そのために、何が大切か。一つは、初めの愛に堅く立つことである。私もバプテスマを受けたばかりの時、牧師から「秋山君、信仰生活三年目が危ない」と言われた。「なぜですか」と問うと、「信仰が慣れてくると、生ぬるくなるものだ」と言われた。そして三年経って、「もう大丈夫ですよね」と問うと、「いや、いや、これからは毎日が危ない」そう言われたことを思い出す。この世と妥協し、いつのまにか、燃えていたはずの信仰がどこかに消えてしまうことが起こり得るのだ。「あなたは初めのころの愛から離れてしましった。だから、どこから落ちたかを思い出し、悔い改めて初めのころの行いに立ち戻れ。」黙示録2:4-5。自分の受浸日に、自分の信仰告白を読み直していると言った信仰の友がいた。信仰告白した時の一途な信仰と、現在の自分の信仰とどこが違うのか、もし信仰が進行せず、後退しているとしたら、どこに原因があるのかを振り返り、悔い改めて、初めのころの一途な信仰生活を取り戻したい。
もう一つは、主とつながっていることである。それは、主の教会である上尾教会につながって、一緒に礼拝を捧げ、一緒に祈り合い、一緒に御言葉を分かち合い、一緒に励まし合い、一緒に担い合うことである。もし、そのような主にある交わりがなければ、コロナ危機の中で、私たちの信仰は弱り果て、消えていったかもしれない。「わたしはぶどうの木、あなたがたはその枝である。人がわたしにつながっており、わたしもその人につながっていれば、その人は豊かに実を結ぶ。わたしを離れては、あなたがたは何もできないからである。」ヨハネ15:5。自分の信仰がくすぶっていても、燃えている交わりの中にいれば、消えかかった薪と同じで、また燃やされるのである。主にある交わりから離れなければ、幾つになっても、豊かな実を結ぶのである。そのために、礼拝を第一とするだけではなく、祈祷会や親子聖書日課にも励みたい。
外の掲示板に、「 だから、わたしたちは落胆しません。たとえわたしたちの『外なる人』は衰えていくとしても、わたしたちの『内なる人』は日々新たにされていきます。」Ⅱコリント4:16
とあった。体に弱さを覚えても、信仰と希望と愛が与えられていることに感謝したい。