今年度の主題と聖句は、上尾教会にとって、教会の使命を確認し、歩むべき道を示してくれている。「一人ひとりを喜び」とは、一人ひとりを大切にし、慈しみ、愛するということである。今日の社会には、生きづらさを感じ、居場所を見出すことのできない人、病や老いの中で不安に感じる人、人間関係に悩む人、性差別や障がい者差別などに苦しむ人・・様々な苦しみを抱えている人がたくさんいる。私たちもその一人かもしれない。そのような人々が、救いの道を求めて、教会を訪ねるのではないか。
「隣人を自分のように愛しなさい。」マタイ22:39という主の大切な言葉を聴く者として、人々の苦しみや痛みを知り、救い出してくださる主の御前に「共に生きる教会」になりたいと願う。星野富弘さんの詩に、「よろこびが集まったよりも 悲しみが集まった方が しあわせが近いような気がする 強いものが集まったよりも 弱いものが集まった方が 真実に近いような気がする しあわせが集まったよりも ふしあわせが集まった方が 愛に近いような気がする」という素敵な詩があるが、教会はまさに、悲しみが、弱いものが、ふしあわせが集まることによって、しあわせが、真実が、愛が近くなる存在である。
「一つの部分が苦しめば、すべての部分が苦しみ、一つの部分が尊ばれれば、すべての部分が共に喜ぶのです。」1コリント12:26を今年度の聖句として聴く者として、教会は、一人が苦しめば、教会員全員が共に苦む。教会は他者の苦しみを、共に苦しむことができる。苦しむ力がある。それは主の十字架の苦しみの愛を知っているからである。隣人の苦しみを避けることなく、心底、その苦しみを共に苦しむ力が教会にはある。それは、あの十字架の主の裂かれた肉、流された血に私たちが与っているからである。そして、苦しみはやがて喜びに変わるという確信と希望が教会にはある。
そして、喜ぶ時には、一緒に心から喜ぶことができる。喜びは分かち合えば、何倍にも大きくなる。そのような主を中心とした交わりの中で、お互いに癒され、慰められ、励まされ、悔改めることによって主の体が少しづつ形作られて行くのではないか。主の体である私たちは、他者の苦しみも共に苦しむことができ、他者の喜びも共に喜ぶことができる。だからパウロは、真の教会は、強い人、完全な人、能力のある人ではなく、弱く見える人、不完全で見劣りする人ほど必要だと言う。なぜなら、弱いところにこそ神の力が働くからである。その弱い部分を補い合うところに、互いの愛が沸きあがって、教会の結びつきをより一層強固なものにしてくれるのである。