ヨベルの年に向けて

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旧約聖書のレビ記には、「ヨベルの年」が定められている。この「ヨベル」とは、角笛のことで、年の初めに、角笛を吹き鳴らすことからそう呼ばれた。その音は、多くの人にとって解放の知らせであった。「この50年目の年を聖別し、全住民に解放の宣言をする。それが、ヨベルの年である。」レビ記25:10。ヨベルの年がやってくると、負債は解消され、失った所有地も戻り、奴隷の身分になっていた者も自由の身に解放される、喜びの年、恵みの年である。人生のリセットが定められているのである。

上尾教会は来年、開拓50周年を迎える。1971年1月11日に、大原宅で開拓伝道が始まった。まさに上尾教会にとっては、来年がヨベルの年である。もちろん、今ある負債が解消されるという意味ではない。(そうであればよいのだが‥・)。かつて罪の奴隷であった私たちが、主の贖いによって赦され、神の恵みに生きる者にされたことを振り返る、喜びの年、恵みの年である。何度も不信仰に陥る私たちを、イスラエルの民に対するように、神は昼は雲の柱、夜は火の柱となって忍耐強く導いてくださった。その恵みに感謝し、新たな出発の時にしたいと願っている。

今年、コロナ禍の中で、信仰とは何か、教会とは何か、礼拝とは何か、私たちは立ち止まって深く考える時が与えられているのではないか。「ステイホーム」と叫ばれる自粛期間も、又、Go To トラベルキャンペーン」で出かけることが奨励される現在も、私たちは「ステイチャーチ」を選び取っている。それは、一途に「神を喜ぶ」ことを大切にしたいと願っているからである。神を喜ぶことこそ、今日を生きる力となるので、礼拝を第一とするのである。「今日は、我らの主にささげられた聖なる日だ。悲しんではならない。主を喜び祝うことこそ、あなたたちの力の源である。」ネヘミヤ記8:10

「神を喜ぶ」ということは、「神を喜ばせる」ことではない。アシュラムで中谷哲造先生の語られた言葉を思い出す。中谷先生が赴任した教会の過去を振り返った時、教勢が急激に減った時期があった。その事を調べていくと、教会員は様々な奉仕活動には熱心に励んでいたが、御言葉を聴くことには疎かであった。「主を喜ばせることに熱心」ではあったが、「神を喜ぶことには熱心」ではなかった、そこに信仰から離れていく原因があったと指摘された。これは私たちの教会でも過去に起った教訓である。「必要なことはただ一つだけである。」ルカ10:42と、マリアのように、御言葉に聴き入ることを主は私たちに求めておられる。その事を、今日の礼拝から始めたい。